アマチュア無線とオーディオブーム
中学生になった父は工作部に入り、顧問の先生から勧められてアマチュア無線を始めます。当時、戦争中に禁止されていた無線の使用が解禁され、アマチュア無線の開局数が増えつつある黎明期でした。さっそくアマチュア無線の免許を取得し、高校生になると開局しました。
1960年代に入ると、父は就職し、東京オリンピックの年に結婚。私が生まれ、大阪万博が開催される直前に、今の住まいがある法隆寺の近くに引っ越しました。父はさっそく、庭に高さ15mのアマチュア無線用の鉄塔を立てます。
父は、ラジオ製作からアマチュア無線に趣味が発展しましたが、世間では、別ルートとして音響機器に進む人もいました。今でも音にこだわるオーディオマニアには、真空管は重要なアイテムです。1970年代に入ると、秋葉原も日本橋もアマチュア無線とステレオ音響機器のブームに沸いていました。電子部品の店舗でも、自作アンプや自作スピーカーのキットが扱われました。
ステレオにも興味を持った父は、当時は最先端技術だった4チャンネルステレオを手に入れました。4チャンネルステレオとは今のサラウンドシステムのはしりで、臨場感を出すため、ユーザーを取り囲むように置かれた4つのスピーカーから音を出します。しかし、市場では受け入れられず、すぐに消えてしまいました。父は4チャンネルステレオ用に地震音のレコードを入手して、大地震の轟音を大音量でよく聴いていました。本物の地震のように家が揺れ、近所からは匿名で苦情の手紙が郵便受けに投函され始めたので、子どものころの私は怯えていた記憶があります。
ある日、庭の一角に小さなプレハブが建てられました。入口の扉には「社長室」と表札が掲げられていたので、父は「社長」なんだと私は勘違いをしていました。そこには、大型タンスのような無線機から携帯用トランシーバー、電子部品や工具が詰まった道具箱、アマチュア無線の専門雑誌『CQ ham radio』のバックナンバーなどがずらりと並んでいました。私もときどき、父専用の「社長室」にこっそり入っていましたが、訪れるたびに、アンテナや機械類などの新しい「おもちゃ」が増えていた気がします。