電気街が父をつくった

「あなたのもとに来た日を、忘れないでいて」(コスプレイヤー=みるる、撮影=YU-SUKE)

JR秋葉原駅前の高架下にある秋葉原ラジオストアーが、今年11月末に閉館されることが発表されました。電子部品を60年以上にわたって販売し続け、秋葉原の歴史そのものと言えるラジオストアー閉館の知らせは、電子工作ファンだけでなく、秋葉原によく通う人たちをも驚かせました。

電子部品といえば、私は自分の父を思い出します。父の歴史は、まさしく電子部品との関わりの歴史であり、秋葉原の歴史とも重なるからです。

父が生まれたのは1942年。戦争が終わる3年前でした。父が電子工作に興味を持ったのは、小学5年の時。理科の授業で鉱石ラジオを組み立て、イヤホンから聴こえるラジオ放送の音に感動したそうです。今度はスピーカーで音が出るラジオが欲しいと思った父は、創刊したばかりの雑誌『初歩のラジオ』や『ラジオの製作』を読みながら回路図を学び、真空管ラジオを組み立てました。ラジオを組み立てるための部品は、地元の奈良県から大阪の日本橋まで調達に出かけました。

日本橋と秋葉原はよく似た歴史があります。どちらももともと露天商の集積地から電子部品を扱う店舗が起こり、進駐軍が使用していた通信機器の中古部品を扱っていました。まだラジオの完成品が高価で入手困難だった当時、秋葉原近隣の学生がラジオを組み立て販売していたように、日本橋でも「アマチュア」と呼ばれる通信技術に長けた復員兵たちがラジオを組み立て好評を得ていました。1949年に、まずラジオストアーが秋葉原駅隣の高架下に店舗を開き、その直後に、今も残る秋葉原ラジオセンター、東京ラジオデパート、ラジオガァデン、秋葉原電波会館が営業を始めました。日本橋では1948年に南大阪電友会(今の「でんでんタウン協栄会」)が誕生しています。

私の祖父が南海電鉄で働いていたこともあり、同じく私鉄の近鉄の無料乗車券を入手できた父は奈良から日本橋まで電車で通うことができて幸運でした。無料乗車券を使い果たすと、自転車で片道3時間かけて日本橋まで通いました。電車代を使うくらいなら、その運賃で真空管1本を買いたかったからです。