宣教師が残した別のきょうだいの話

一般に「旭」または「朝日」とされる妹は、のちに徳川家康の正室に迎えられた。天正18年(1590)1月14日、京都の聚楽第で病死し、享年48というので生年は天文12年(1543)になる。すると秀吉より6歳、秀長より3歳年下で、木下弥右衛門の没年が前述のとおりであれば、彼女も秀吉と秀長とは同父の姉妹の可能性がある。

豊臣秀吉の妹、徳川家康の継室、朝日(旭)姫の肖像画
豊臣秀吉の妹、徳川家康の継室、朝日(旭)姫の肖像画(写真=京都・南明院所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

ところで、この「旭」については、家康に嫁ぐために夫と離縁させられた、といわれてきたが違うようだ。山鹿素行編の『武家事記』によれば、夫の副田そえだ甚兵衛じんべえは本能寺の変後、但馬(兵庫県北部)の多伊城(兵庫県新温泉町)を守りながら、一揆勢に城を奪われた。この失態を秀吉にとがめられ、「旭」と離縁させられたという。

さて、秀吉の兄弟というと、一般にはここまでである。「豊臣兄弟!」でも、秀長を仲野太賀、秀吉を池松壮亮、姉の「とも」を宮澤エマ、妹の「あさひ」を倉沢杏菜が演じ、血のつながったきょうだいはこの4人にかぎられる。

ところが、イエズス会の宣教師だったポルトガル人のルイス・フロイスが記した『日本史』(第2部88章)には、別のきょうだいの話も記載されている。まず、それを引用しよう。

「関白の面前で斬首され」

最初に「兄弟」の話から。天正15年(1587)1月のこととして記されている。

「一人の若者が、いずれも美々しく豪華な衣裳をまとった二、三十名の身分の高い武士を従えて大坂の政庁に現われるという出来事があった。この若者は伊勢の国から来たのであり、関白の実の兄弟と自称し、同人を知る多くの人がそれを確信していた。関白は高貴の血筋をひくどころか、下賤の家柄であり、彼もその親族も、あるいは農業、あるいは漁業、もしくはそれに類したことを生業としていた。しかるにひとたび彼が絶大な権力と名誉ある座に昇り、最高の位に就くと、彼ら親族たちは貧困で悲惨な境遇から浮上し、彼からそれとは別の地位なり名誉なりを受けることになったのである」

「関白は、傲慢、尊大、いなそれ以上の軽蔑の念をこめて、自らの母大政所に対し、かの人物を息子として知っているかどうか、そして息子として認めるかどうかと問い質した。彼女はその男を息子として認知することを恥じたので、(中略)苛酷にも彼の申し立てを否定し、人非人的に、そのような者を生んだ覚えはないと言い渡した。その言葉を言い終えるか終えないうちに、件の若者は従者ともども捕縛され、関白の面前で斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された。このように関白は己れの肉親者や血族の者すら己れに不都合とあれば許しはしなかったのである」(松田毅一・川崎桃太訳)