なぜドイツは今も強制収容所関係者の犯罪追及を続けるのか。『終章ナチ・ハンター ナチ犯罪追及 ドイツの80年』(朝日新書)を出した朝日新聞記者の中川竜児さんは「ナチスの犯罪者を裁くドイツを取材すると、国際社会に対して民主的国家として再生するというドイツ社会の宣言だとも受け取れる」という――。

Aから入り、Zで死に至る強制収容所

ベルリンに近いザクセンハウゼン強制収容所は、収容者に労働させ、搾取することを目的とした場所だったが、処刑場や火葬場(焼却炉)、ガス室も備えていた。処刑場などはタワーAから見ると、敷地の左手奥にあり、「ステーションZ」と呼ばれていたという。

収容所跡に整備された追悼博物館の副館長アシュトリット・ライは、理由をこう説明した。「収容者はまずタワーAから入って、Zで死に至る、そういう流れだったのです」

ステーションZがあった場所に建てられた屋根付きの施設を目指して歩く。処刑をしたという坑が残り、破壊された焼却炉が並んでいた。

ザクセンハウゼンでは過酷な強制労働や病気、飢え、処刑などにより、推定で10万人が命を落としたとされる。

元看守の男性はこの地で勤務した1943年7月から1945年2月までの期間に、約3300人の殺害を幇助ほうじょしたとして訴追されていた。ただ、男性の罪は「何年何月何日何時ごろに、この収容者をこういう方法で殺害した」という具体的なものではない。

男性は駅に到着した収容者の移送や収容所内での警備を担当していたとされるが、収容者を処刑したり、ガス室に押し込んだりした、といった証拠はなかった。看守としての勤務期間中にこの収容所で殺害された人々の大量殺害を手助けした、ということだ。言い換えれば、収容所の究極の目的が「大量殺害」だった以上、その収容所の日々の作業を支えた看守には、殺害に関して責任がある、という理屈だ。

1938年12月19日、ドイツ・ザクセンハウゼン強制収容所の様子
写真=Wikimedia Commons
1938年12月19日、ドイツ・ザクセンハウゼン強制収容所の様子(作者不詳/CC-Zero/Wikimedia Commons

80年前の被害者の証言を集める

男性がここに勤務していたことは、資料などから、おそらく動かせない事実だ。だが、広大な敷地を歩いて大量殺害の痕跡を見ていても、その男性の行為のイメージはなかなかつかめない。

購入した書籍には、親衛隊員らによる拷問や処刑シーンの写真や挿絵が載っていた。ビルト紙が掲載していた男性の現在と過去の写真を思い出し、「これがもし彼だったとしたら」と想像してみるが、やはり難しい。当然かもしれない、もう80年近く昔の出来事なのだから。

ライはザクセンハウゼンの被害者の証言を集め、この元看守の男性が所属した隊がどんな任務に就いていたかなど、訴追に向けた情報収集に協力した。「確かに彼は直接手を下していないかもしれない。でも、収容所は多くの人間によって運営されていた。小さな任務でも、それがなければ動かない、とても複雑な組織だった」。そうした収容所の実態も、時間をかけた研究の積み重ねによって明らかにされてきたものだという。