【山田】いまの時代、平均寿命がどんどん延びても、必ずしも幸福ではない老人がけっこういますでしょう。「まだ意識のあるうちに死にたい」とか、「迷惑かけたくない」とか、死への願望のようなものがあると思うんです。もちろん自殺を勧めるわけではないんですが、医療やテクノロジーが発達してしまった中で、望みとは関係なく生きさせられることがあるのも確かだと思います。そのへんを描けないかなと思ったんですけれども。

【玄侑】死は「自然」であってほしいと、私は思うんです。しかしこの「自然」というのがよくわからない。どうにも割り切れないから「自然」なんでしょうが。

【山田】そういうところを全部割り切れたら、悩みはなくなるんでしょうが、現実にはそれぞれ個々の事情を悩むしかないんじゃないでしょうか。

【玄侑】ええ、きっと死ぬまで、もうぐずぐず悩み続けるんでしょうね。

「苦労自慢」は質のいい価値観

【山田】僕自身はくっきりした信仰も何もない人間ですが、ただ、ある頃から日本人は、自分の至らなさや、人間それぞれが持っている限界への意識が足りなくなっているんじゃないかと思えてきました。

【玄侑】いつ頃からですかね。

【山田】バブルの頃でしょうね。人間は1人ひとり限界だらけの存在でしょう。ところが、たとえば学校の卒業式なんかでは、「君たちは全方向に可能性を持っている。努力次第で何にでもなれる」というようなことを言います。でも、僕という人間1人をとってみても、生まれる場所も、親も、容貌も、背丈も、才能も、何も選べない。それだけでもう限界だらけですよね。木村拓哉さんみたいなスターには、努力したってなりようがない(笑)。その限界から目を背けて、努力すれば何でもできるって非現実的なことを言うのはおかしいと思うんです。ですから、自分も、そして他者も万能ではないことを認識すること、いわば人間の哀しみを知ることが大事だと思うんです。