プロレスラー・アントニオ猪木が亡くなって3年が経った。今も語り継がれるモハメド・アリとの世紀の一戦を前に、猪木のスパーリング相手を務めたのが当時若手レスラーだった木村健悟氏だ。木村氏は「強敵を病院送りにした“アリキック”は、サポーターをつけた状態で受けても相当なダメージが残った」という――。

※本稿は、佐山聡・藤原喜明ほか『アントニオ猪木と新日本「道場」最強伝説』(宝島社)の一部を再編集したものです。

パンチをかわすトレーニンクグをするアントニオ猪木
提供=東京スポーツ新聞社
パンチをかわすトレーニングをするアントニオ猪木=上野毛の新日本プロレス道場

「BI砲」崩壊後の活気を失った団体

昭和の新日本プロレスに偉功を残したプロレスラー、木村健悟。その歩みは16歳で相撲部屋に入るも1年で廃業し、1972年に日本プロレスへ入門したところから始まっている。

力道山亡きあと、人気面で日プロを支えていたのがジャイアント馬場&アントニオ猪木の「BI砲」だった。しかし、木村の入門直前の1971年12月、猪木は会社乗っ取りを企てたとして日プロを追放されていた。

猪木追放後も、馬場や、木村が付き人を務めた坂口征二がトップとして健在だったが、地方巡業の客入りは悪化しており、幹部や所属選手たちに不安が広がっていた。不運なことに、木村が入門した時期、日プロは明らかに活気を失っていた。

「雑用と道場での練習に明け暮れ、最初は余計なことを考える暇もなかったのですが、毎日毎日、会場の客席がガラガラだったので、さすがにこの先どうなるかと心細さを感じました。結局、エースの馬場さんが1972年7月に日プロを退団。私も付き人を務めていた坂口さんと行動をともにすることになり、1973年3月に、猪木さんが1年前に旗揚げしたばかりの新日本に移籍しました」