長州にも近く、藩主は松平家だが新政府に恭順

京都の新政府を連合して推し立てたのは、西国の有力な諸藩であり、その間にあって孤立無援に陥っていた松江藩の事態は、いかんともし難かった。遠く江戸にある将軍の城の陥落を待つまでもなく、松江は、天皇を戴く新政府に対して、ただひたすら恭順の意を示すほかに道はなかったのである。

そして、セツが生まれて24日目に当たる2月28日の夜、京橋から松江城の三の丸に通ずる広小路の両側に、家老をはじめとする出雲の侍たちは、皆、裃を着け無刀で、路上に積もる雪や泥土の中に土下座平伏し、当時満18歳の西園寺公望さいおんじきんもちが率いる官軍を迎えたのであった。うち並ぶ提灯に照らし

松江藩最後の藩主・松平定安
松江藩最後の藩主・松平定安、北海道大学附属図書館北方資料室所蔵(写真=作者不詳/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

出された彼らの頭上には、冷たい雨が静かに降りしきっていた。

否応なしに東北での戊辰戦争に巻き込まれる

山陰道鎮撫使の官軍の松江城入りは、セツ誕生時の特殊な情勢を象徴する。ただし、戊辰戦争における松江藩の進退と運命は、ハーンも『東の国から』で語る会津藩の場合とは違って、やや複雑であった。

長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)

松江藩は王政復古の後、「宗支の礼は正しくし」と、一度佐幕の方針を家臣一同に示しながら、鳥羽・伏見の戦いの時を含めしばらく、将軍家に対する「孝敬」と朝廷に対する「忠勤」との間を揺れ動き、1月16日に至って「只管ひたすら勤王の外無之ほかこれなし」と藩の態度を確定したのである(内藤正中『島根県の歴史』等)。しかし、これを新政府は受け入れなかった。

さらに、3月初め官軍が松江を去った後、新政府から泉州堺の警備を命ぜられて、セツの父の小泉湊も加わった。続いては奥羽出兵の命に服し、明治改元(9月8日)後の10月5日、家老神谷兵庫の率いる出雲の侍たちは、錦にしきの御旗みはたを掲げて盛岡城下に入るのである(『松平定安公伝』)。

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