城下町の松江、セツの生家は武家屋敷
セツが生まれた小泉家の屋敷の位置は、ほぼ確定することができる。昔、家中屋敷の立ち並ぶ侍町の東隅に、要地を抑える目的で置かれた、家老大橋茂右衛門の例外的に広大な屋敷があった。その西側で米子橋を経て松江城へ向かう道へ進み、すぐに左折して左手3軒目が、往時の小泉家の屋敷であった。
同じ南田町に在住された角田喜代子さん(筆者の訪問時にご健在)が、子供の頃その屋敷の南隣に住み、祖母から「セツ夫人の生家」だったと聞き、また久しく残っていた門長屋をよく記憶しておられたが、その位置が、昨年(2024)出版された『小泉セツ ラフカディオ・ハーンの妻として生きて』所収の「松江城下絵図」(嘉永年間)で示され、「文久元年の松江城下図」(『城下町松江の今昔』所収)で、「小泉弥」と記されている屋敷の位置と正確に一致する。
そして、明治8年(1875)に小泉湊が家禄を奉還した時の住所が、「南田町」と記されている(『島根県士族家禄奉還資金調』)ところから、まず、当の屋敷をセツの生家とみてよいと思われる。当の屋敷は『嘉永5年屋敷調』での記載から、西に向いた表の間口が17間2尺(32メートル)、奥行が33間(60メートル)もある、大きな屋敷であったことが知られる。
明治の新政府に組するか? 瀬戸際の松江藩
セツが生まれた時、松江城下は重苦しい空気に包まれていた。松江は過去200年余りの間、その藩主が、全国のおよそ300の諸大名の中でも、御家門の流れを汲み、とりわけ有力な「国持十八家」に数えられることを、誇りとしてきた。しかし、時はあたかも、その松江の誇らかな地位が失われ、また広く武士階級の消滅を運命づける、緊迫した事態にあったのである。
王政復古の大号令とともに新政府が樹立された後、官軍と幕府軍が京都郊外の鳥羽・伏見で戦い、幕府軍が致命的な敗北を喫したのは、ちょうど1カ月前のことであった。この天下の大局を決した戦いにおいて、松江藩は、いずれの側に就くべきかを決めかねる、極めて苦しい立場に立たされたのである。
それというのも、山陰の地に位置する藩でありながら、家康の孫の松平直政が松江に封じられて以来、代々の藩主が、家紋を同じくする将軍家の有力な一門として、格別な名誉を与えられてきたからであった。そうした成り行きから、折しもセツの生まれた日には、松江藩を「鎮撫」する官軍の一隊が、松江進撃の本営と定めた鳥取の城下に進駐しつつあって、松江の侍たちは、これに対処する方策を必死に探っていたのである。

