2月の節分の日に生まれたから、セツという名に
ハーンの没後は「節子」が前面に出ている。チェンバレンのセツ宛日本語書簡の1通(1906)は、「ロンドンにて チヤムブレン出ス 5月廿9 小泉節子様」(池田記念美術館)で結ばれているし、田部隆次の『小泉八雲』(1914)に収められた「思ひ出の記」の著者も、「小泉節子」であった。
なお、「セツ」は「節分の日の生れ」に由来するという(セツ令孫小泉時「妻節子と供たち」『国文学 解釈と鑑賞』所収)。また、娘の頃には「おシェさん」と呼ばれた。「シェ」は「セ」の出雲訛なまりで、ハーンが「シェンシェ」と呼ばれたことに通ずる。
小泉の父には11人の子、セツは6番目だった
セツの父は、初め俊秀で、維新後に改名して湊と称した。セツの長男の小泉一雄は、この湊の別名を、「亡き母を語る」(根岸磐井『出雲における小泉8雲』所収)では茂衛門、『父小泉八雲』(1950)では常右衛門としているが、『雲藩列士録』(以後『列士録』)をはじめとする古文書類は、小泉家当主が、3・4・5代目で弥一右衛門の名を用いたほかは、代々弥右衛門を称したことを示しており、さらに『松平定安公伝』にある氏名と突き合わせれば、弥右衛門襲名の前に右門の名を用いたことが分かる。
なお、彼はチエとの間に11人の子を儲けて、セツは6人目に当たり(「亡き母を語る」)、戸籍簿と照合すれば、5人の子が夭折している。
セツの父で8代目、藩ではセレブの家柄
『列士録』によれば、初代の小泉弥右衛門は、本国近江、生国(出生地)因幡の侍である。はじめ、讃岐丸亀藩4万5千石の藩主である山崎虎之助(治頼)に仕え、家老を務めていた。しかし、明暦3年(1657)、虎之助が夭折し、嗣子なき故の除封となるに及んで江戸に出、翌年(万治元年)、出雲松平家の祖である直政に召し抱えられた。初めは使番、後に20名の徒(足軽)を統率する者頭を務めている。
その後の小泉家は、2代目弥右衛門が50人の本士を率いる番頭を務めて以来、代々、セツの父8代目弥右衛門に至るまで、一定期間、者頭ないしそれに準じた役職を務めた後、番頭に進んでおり、また、嫡子には家督相続と同時に、組外という格式が与えられている。この格式は、直接ほかの侍の采配下に入らないことを意味し、『雲藩職制』の編者が「一国中の貴族」と表現した、上士に限って与えられた待遇であった。

