そしてゆき着いたのが、自動車のシートカバーの素材に合成繊維を利用してもらうアイデアだ。当時、一般に使われていたのは耐久性の高い塩化ビニール。しかし、高級感に欠けていた。一方、シルクやウールなどの天然繊維だと高級感は出るが、すぐに磨耗してしまう。そこで合成繊維なら、それらの問題をすべてクリアできると考えたのだ。自動車メーカーに打診すると、反応も上々だった。
ところが、上司の営業部長は「そんな仕事はさせない」と言い張り、技術部長も「自分の目の黒いうちはやらせない」とつむじを曲げてしまう。委託賃加工業が身に染み付いた上層部は、新しい仕事に挑戦する気が全くなかった。
そこで助け舟を出してくれたのが、以前ともに汗を流した勝見工場の現場の仲間たちだった。日中は管理職の目が光っている。だったら、24時間稼働の夜の時間を使ってシートカバーの試作品をつくったらいいと、労力を惜しむことなく協力してくれた。その姿を見て、川田は心のなかで手を合わせる思いだった。
不遇を嘆くより、夢を追い続けろ
そんな紆余曲折を経てシートカバーを初出荷できたのは76年8月。社内で「異端児」扱いされてきた事業だけに、喜びも一入(ひとしお)だった。その後、世界中の自動車のシートカバーの素材は合成繊維へ替わっていく。そうした自動車関連事業の売り上げは、80年代半ばにはセーレン全体の4割を占めるようになっていた。
その一方で、73年後半から発生した「繊維不況」の荒波がセーレンにも押し寄せ、14年間連続の赤字経営へと追い込まれていった。そうしたなか、76年に同期のビリで課長へ昇進した川田は、79年部長、81年取締役へと抜擢された。そして87年6月に転機が訪れる。
「前任の黒川誠一社長から『このままだと会社は潰れる。君に任せるから、思い切ってやってほしい』と社長就任を打診された。赤字経営が続いて重くなっていた社内の人心を一新するため、『やります』と即答した」
そう語る川田が打ち出したのが「整流」と「5ゲン主義」の浸透である。