「よい子にさせる=暴力をふるう」という発想になっていた

Aさんからすると愛情とは、娘が言うことをきかなかったりAさんの期待していることをしなかった場合、手を上げて叱ったり行動を正したりすることだと受け止めている節もあったのかもしれない。

叩かれた子どもの気持ちよりも、よい子になってもらいたいというAさんの気持ちが優先され、それが愛情だと理解していたと感じられた。それゆえに、児童福祉司からの「もっと愛情をかけてあげて」という言葉がAさんにとっては、相手の気持ちを尊重するよりも、娘を何が何でもよい子にさせるという意思を強くしなければという考えにつながり、これまで以上に虐待が深刻化していったと考えられる。

確かに、自閉スペクトラム症の人の中には、この事例のように「愛情をかける」というのがどうすることなのかわからなかったり、あるいは「親密になる」ということがわからず、いきなり異性の体に触ったりしてしまうという場合も見受けられる。

定型発達の人であれば、「愛情」や「親密」というのがどういうことかというのは辞書での定義のように明確に述べられなくても、なんとなくこういうことだというのが共通理解として持っている。しかし、自閉スペクトラム症のある人では、そんな共通理解とはなりにくい、独特の捉え方をしていることが珍しくない。そのためAさんの児童福祉司とのやりとりを見ればわかるように、愛情の認識が大きくずれてしまう。

「子どもへの愛」を一方的に求めるのはリスクがある

結果的にはAさんに六法全書の条文を読ませ、自分のしている行為を客観的に捉えさせ、それが愛情ではないことを理解できたことは大きな意義があった。そのことが母親の行動改善に結びついたと言える。

そのように考えると、このような自閉スペクトラム症の特性を持つAさんに対して、「愛情をかけてあげてください」「娘さんの気持ちをもっとわかってあげてください」という言葉がけが果たしてよかったのだろうかと思ってしまう。

橋本和明『子どもをうまく愛せない親たち 発達障害のある親の子育て支援の現場から』(朝日新書)

愛情が何かわからず、他者への配慮がしにくい人にそれを強く求めることは相手をますます混乱させ、事態を悪化させてしまうことになりはしないだろうか、と考えさせられるのである。筆者はこのAさんの事例に出会って、支援者が愛情を振りかざすような支援を親に要求したり、それを目指していこうとしたりすることにどこまで効果があり、そして意味があるのかと考えるようになった。

もちろん、愛情についての共通認識があり、それを理解し感じ取れる人であれば、こうしたアプローチも悪くはない。しかし、問題は自閉スペクトラム症の特性があるなど、それがしにくい人である。彼らにとっては、抽象的でわかりにくい愛情をかけることが混乱を招き、逆にそのことが弊害になることがある。

それよりも、子育ての具体的な方法や、時には独自の養育の工夫を目の前の親と一緒になって考えていくことの方が、虐待防止には有効であると思えたのであった。

関連記事
「こういう子が将来、犯罪者になる」学校でそう言われ一緒に死のうとした母に息子が放った衝撃の一言
父にはパチンコに、母には夜の仕事に連れて行かれ…4歳で児童養護施設に入所した少年が語った幼児期の記憶
「自分はダメ人間だ」と思ってほしくない…発達障害の息子に父が毎日している"自己肯定感を上げる声かけ"
「離婚して夫に子どもの親権も渡したい…」遺書を用意するほど追い詰められた母親を救ったテレビ番組の一言
「うちの子、布団から出られなくなっちゃって…」子育ての専門家が見た、悩む親ほどやっていない"習慣"