過酷な演習はまだ始まったばかり
これは5月初めのことだ。コロナド沖の海水温は、春は16、17度ほどにしかならない。俺たちは数珠つなぎになって、水面を浮き沈みしながら水平線を見張り、波が俺たちを呑み込む前にうねりを見つけようと必死だった。
俺たちのボートクルーのサーファーがいち早く先触れに気づいて「波が来るぞ」と叫んでくれたおかげで、ギリギリのところで潜って波をやり過ごすことができた。
10分ほどすると、サイコが「陸に戻れ」と命じた。俺たちは低体温症になりかけていた。急いで砕波帯〔波が白く砕けるところから岸までのエリア〕を離れ、気をつけの姿勢を取って、メディカルチェックを受けた。これを何度もくり返した。
夕焼け空はくすんだオレンジ色で、夜が近づくにつれグッと冷え込んだ。
「諸君、太陽に別れを告げろ」とSBGが言った。俺たちは夕日に向かって手を振った。体が凍えかけているという、不都合な真実を受け入れるための儀式だ。
1時間後、体は完全に冷え切っていた。俺たちボートクルーの6人は、少しでも暖を取ろうと身を寄せ合ったが、全然温まらなかった。寒くて歯がかみ合わなくなり、ガタガタ震えて洟をすすった。
それは俺たちの心が乱れ、揺らいでいることの表れだ。過酷な演習がまだ始まったばかりだという現実を、俺たちはやっと理解し始めたところだったんだ。
屈強な男たちに起きた変化
ヘルウィークの前は、フェーズ1のロープ登りや腕立て伏せ、懸垂、バタ足でどんなに心が折れそうになっても、逃げ場があった。どんなにつらくても、夜になったら兵舎に帰り、友だちと飯を食って映画を見たり、外に出てナンパしたりした後、自分のベッドで眠れるとわかっていた。つまりどんなにつらい日でも、目の前の地獄から逃れることだけを考えていればよかった。
ヘルウィークは、そんななまっちょろいもんじゃない。とくにつらかったのは、初日が始まって1時間後に、みんなで腕を組んで太平洋に向かい、海から出たり入ったりを何時間もくり返した、この時だ。
その合間には教官たちに、「体を温めてやろう」と言われて、柔らかい砂を体中にまぶされた。俺たちはたいてい硬いゴムボートか丸太を頭上に担いでいた。たとえ体が温まったとしても、それはほんの一瞬だった。なんせ10分ごとに海の中に戻されたからな。
初日の夜は、時間の進みがとくにゆっくりに感じられた。寒さが骨の髄までしみ渡ると、走っても走っても体が温まらなくなる。その夜はもう爆弾も射撃もなく、叫び声もほとんど聞こえなかった。代わりに不気味な静けさが広がった。やる気は地に落ちた。
海の中で聞こえるのは、頭にかぶる波の音と、うっかり飲み込んだ海水が胃の中でゴロゴロする音と、歯がガチガチ鳴る音だけだ。