宮崎県では東国原登場まで、知事は1959年4月以降、48年余で3人、それも農林水産省と県庁のOBだけだ。後援会会長の稲森は「民主主義は何もなかった」と言い切った。50年の厚い壁を突き破って民主主義を持ち込む起爆剤として、県民は全国人気の芸人候補という爆薬を使い、風穴を空けた。

吹き込んだ風に乗って県のトップに立った爆薬知事は、現代日本の民主主義を本質的に変革させるだけの手腕と力量と識見を持ち合わせているのかどうか。


宮崎県での支持は圧倒的。強い支持率をバックに実のある改革ができるか。

「東国原知事はマスコミが担ぎ、マスコミがつくり上げ、マスコミが政治の世界に送り込んだ知事だと思う」

県議の井上は訴える。東国原がいた芸人の世界は、虚と実の混濁、あるいはすべて虚構という実社会を超越した異次元の中で、無限の広がりと可能性を追い求めて才と技を競う。つまり計算された演技を、計算どおりか計算以上に演じるタレントが高い評価を得る世界である。

演じる側はもちろん、観客もそこは初めから承知しているはずなのに、電波を通じて「参加者」として組み込まれる不特定多数の視聴者は虚と実の判別に無頓着となり、ともすれば判別不能となる。演じる側と視聴者のこの関係を、タレント政治家は意識的に政治に持ち込む。

考えてみれば、大衆の動員と大衆の支持の下に成立する現代の民主主義社会では、政治家と有権者は芸人と視聴者の関係と共通する部分がある。政治もまた虚実混濁の世界であり、あるときは政治家にも芸人のような演技力が求められる。

だが、政治が対象とする国民生活や経済動向、産業社会、国際社会などは紛れもなく実の世界である。政治が有権者に約束し、有権者がそれをチェックするマニフェストは、政治の世界での見せかけや建て前といった虚を排し、人々が実を手にするための仕掛けといっていい。

「虚の民主主義」を脱して「実の民主主義」へ、壮大な実験が各分野、各地で展開されている時代に、虚の世界の価値観と手法を政治に持ち込もうとする芸人政治は民主主義をどう変容させるのか。

東国原知事は虚の技法を駆使することによって「実の民主主義」に近づくという究極の「逆張り」を企図しているのだろうか。東国原の挑戦は、ただのタレント知事の劇場政治によるポピュリズムで終わる危険性と背中合わせだ。だが、もしかすると、「民主主義の変革者」として歴史に名前を刻むことになるかもしれない。真贋が問われる時期はそんなに遠くはないだろう。(文中敬称略)

(増田安寿、芥川 仁=写真)