戦争で“砂漠”のようになり、急速に復興した

もう一つ、市が懸念しているのが、「郊外」の人口減少である。それを理解するために、ここで神戸の人口をめぐる紆余曲折の歴史を少しばかり概観しておきたい。

1868年(慶応3年)の開港当時、神戸は人口わずか2万人余りの小さな港町だった。人々は港を通して世界に窓を開き、実に多様な文化の吸収に努めた。西洋と東洋が交差し、瀟洒しょうしゃな建造物が立ち並んだ。独自の民衆文化が花開く国際都市。1939年、人口は100万人を突破した。

しかし、そのエキゾチックで美しい都市は、戦争によって容赦なく破壊された。造船、鉄鋼などの基幹産業が集中する神戸は、米国軍の重要な戦略爆撃目標の一つとされていたためだ。1945年6月5日までの大空襲で、神戸市の市街地面積の6割が破壊され焦土化した。

敗戦直後の神戸をカラー映像で撮影した従軍カメラマンは、「まるで砂漠のようだ」と語った。人々の生活は崩壊し、都市機能は停止した。1945年、人口は約38万人まで減少した。それでも多様な人々の力で復興は急速に進んだ。

敗戦から11年後、1956年には再び人口が100万人超に回復。神戸の街は驚くべきスピードで復活した。

山地を切り開き“ニュータウン”を開発

ところが、高度経済成長期、新たな課題に直面する。都市部への人口集中だ。六甲の山並みと海岸線にはさまれた狭いベルト地帯に、ぎっしりとビルや家々が集中。神戸は全国で1、2を争う過密地帯となった。

当時、六甲山系を挟んで「1対9」という数字がよく例に出された。神戸市の全区域のうち、海に面した市街地は約10%にすぎないが、逆に全人口の90%がこの狭い区域にひしめき合っていた。1970年、人口は128万人を超えた。

こうした中、市は大胆な施策を講じる。「山、海へ行く」と呼ばれる巨大土木事業である。山地を切り開き宅地を造成し、いわゆる“ニュータウン”を開発した。

NHKのアーカイブには、高度経済成長期の神戸の映像が残されている。当時、六甲山の山腹のあちこちで宅地造成が行われていた。山肌を発破する映像は、高度経済成長期を生きていない私たちの世代には衝撃的だ。

山は、日一日と削り取られ、低くなっていきます。この後には、4600戸の住宅団地ができる予定です。山を海に移す。まさに現代の国引きです。
(新日本紀行「丘に上がった神戸~兵庫県神戸市~」1969年)
神戸市の人口動態(出所=『人口減少時代の再開発』)p.199

削られた山の土は、海へ運ばれ、港湾開発に利用された。コンテナ埠頭、流通施設などが整備され、神戸港は貿易の拠点として発展した。そして、ニュータウンは爆発する人口の受け皿となった。震災で人口が減少したが、再び人々は復興を進めた。2010年、人口は154万5000人のピークに達した。