彰子が敦康親王にこだわった理由
敦康親王の誕生日は長保元年(999)11月7日だが、1年余りのちの長保2年(1000)12月16日、母の定子が亡くなった。そこで、翌長保3年(1001)8月には、彰子が敦康を養母として育てることになった。
同じ殿舎で暮らすようになるのは、長保5年(1003)8月からだが、それでも元服するまで丸7年間、一つ屋根の下で「親子」として暮らしてきたことになる。情が移るのも当然だろう。また、彼女が一条天皇と思いをひとつにするとは、敦康が東宮になるのを願うことだった。
加えて、倉田実氏は、敦康親王の養母となった彰子は、敦康親王を東宮にして後見することこそが、自分のとるべき道だと教育されてきた、と指摘する(『王朝摂関期の養女たち』翰林書房)。そうであるなら、彰子が敦康の立太子を望むのは、道長が蒔いたタネだと指摘できるだろう。
ただ、彰子は、自分が産んだ敦成親王よりも敦康親王を大切に考えていた、というわけではない。まずは慣例どおりに、第一皇子の敦康親王が皇位を継承し、その後、実子である敦成親王を即位させればいいと考えていたのである。
とにかく時間の余裕がない道長
しかし、道長は敦康親王を排除し、敦成親王を東宮にすることに前のめりだった。持病の飲水病(糖尿病)の影響もあり、体調を崩しがちだった道長には、待つ余裕がなかったものと思われる。
とくにこの時代は村上天皇の子であった冷泉天皇(63代)の系統と円融天皇(64代)の系統が、交互に即位することになっていた(両統迭立)。冷泉の子である花山天皇(65代)の次に、円融の子の一条天皇(66代)が即位したのはこのためだった。
次は花山天皇の弟の居貞親王(のちの三条天皇)と決まっていたから、敦康を選んでも敦成を選んでも、即位は次の次になる。仮に敦康を東宮にすれば、その次は冷泉系でなければならないので、敦成は4代先ということになる。
1人の在位期間を5年としても15年後である。当時は40歳を超えると老人だったから、すでに40代半ばに達し、病気がちでもあった道長は、先に敦康が東宮になったら、自分の「目の黒いうちに」敦成が即位できるとは思えなかっただろう。
だが、それにしても、道長がとった行動はえげつなかった。