「改革派の政治家」こそ地道な活動が重要になる

建て替え問題などを巡って「利権ある職員が反発した」という仮説は成り立つことは成り立つ。だが、仮にあったとしてしても、まずは検証に耐えうる事実が必要であることには変わりない。

証拠にもとづく複数の内部の証言が出てきた上で検証の末に事実であるとするか、文書など強い証拠が出てきて事実検証したというのならばともかく、現状はそこまでではない。繰り返しになるが、あくまで「仮説」に過ぎないのだ。少なくともマスメディアの規律に準じていえば、斎藤氏の控えめな主張について報道に耐えうるファクトがあるとはおよそ言えない。

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もう一つ付け加えておくと、改革を標榜する政治家ならばさまざまな声が内部から出てくるのは世の常である。抵抗や風当たりも強いということは一般論としては成り立つ。

その中で、粘り強く内部をまとめ上げて、議会で味方を増やしながら取りまとめていくところにこそ、民意を背にした政治家の力が問われるのではないか。私は必ずしも彼らの政策のすべて賛同するわけではないが、最初期の大阪維新の会をみればいい。

橋下徹氏が大阪府知事を務めたときは、改革を標榜する知事のもと、政策面からサポートする参謀役が議会の内外にいて、知事を支持する一派をまとめ上げる右腕がつどって政策を推し進めようとしていた。彼らは府庁や議会にも敵も多く作っていたが、同時に粘り強く味方を増やすこと、とかく地方選挙を重視して議会で多数派を形成することを諦めなかった。特に地方議員は民意を追い風にすべくドブ板選挙もしっかりとこなしていた。

告発者の感情に寄り添うべきだった

民主主義の制度の中で、改革路線の味方を増やそうというのは真っ当な戦略だ。議会が知事による解散という選択肢も十分にありえたなかにあって全会一致でNOが突きつけられたところで、斎藤氏の限界は見えていた。

私は今回のケースで告発者が亡くなったことをもってして責任を取ってやめるべきだとはまったく思わない。ここで大事なのはやはり感情への配慮だ。斎藤氏は結果的に職員が亡くなったことへの道義的責任を認めた上で、感情に寄り添わないといけなかった。

部下の死である。そこで「悲しかった」が、「自分に落ち度はない」という姿勢を崩さずに、道義的責任を問われた局面でも「道義的責任を認めた時点で辞職を迫られる」と判断し、突っぱね続けたのは完全な悪手だったように見える。

一部を認めたパワーハラスメントも同様だ。だが、しかし……を続ける必要はない。