労組代表が取締役会に参画するパナソニック

何よりも問題なのは、会社統治の具体的なあり方を法律で定めるというやり方である。こうすれば、いい会社統治が行われるという唯一最善のモデルはない。国によって、また会社によって望ましい方式は異なる。

にもかかわらず一定の方式を法律で定め、それをすべての企業に義務付けるというやり方は、一部の企業に不適切な統治制度を強いることになる。仮にそれが、多くの企業にとっていい制度であってもである。もし、経営に唯一最善の方法があって、それを法律で定めることができるのなら話は簡単だが、残念ながらそのような解決策はないのである。経営学者が怠けていたからではない。経営という現象の宿命である。

だとすれば、会社統治の制度は、株主総会、取締役会、会計士による監査の必要性など最低限の要件のみを法律で決め、後は、関係者による自由な選択にゆだねるべきである。その中でよいものを慣行とすべきである。取締役をどこから選ぶべきか、どのような内部統制の方法をとるかまで法律で決める必要はない。実際に、パナソニックはずいぶん以前から労働組合代表を取締役として参画させている。他の企業でも、労使協議会など、従業員の声を聞く制度をつくっている。それよりも監査役会に従業員代表を入れるほうがいいなどといえるのだろうか。

細かく決めないとズルを決め込む不埒な経営者が出てくるという反論が出てくる。しかし、そのような不埒な経営者はごく少数だ。このような少数の経営者のために、多くの健全な経営者の選択を縛る必要はない。しかも、不埒な経営者はどのような法律をつくろうと、それを形骸化し、ズルをする。細かなところまで決めなくても、ふつうの経営者は工夫をして従業員の期待に応えるべく行動する。

また、経営意思決定の中枢へ入ることが労働組合にとってメリットがあるかどうかもよく考えなければならない。経営の視点からの責任ある意思決定機関に参画してしまった組合は、自分たちの要求を貫き通せなくなるからである。政権に入ってしまったかつての社会党が自己主張できなくなって存在意義を失ったのと同じことが起こる可能性がある。

もちろん慣行は脆弱である。いい慣行が生み出され、その慣行が遵守され維持されるためには多くの人々の協働が不可欠である。この貴重な慣行を軽視し、細部まで法律で決めてしまおうとしたのが、自民党政権の失敗であった。このような慣行は長い時間をかけてつくり出され維持されてきたものである。すぐにつくれるものではない。だからそれは社会の財産になるのである。

日本の会社統治の慣行は日本社会の貴重な財産であった。この貴重な資産は、一片の法律によって瓦解してしまった。実際に会社法が改正されてから日本企業は元気がなくなり、国際競争力は低下した。民主党政権が同じような失敗を繰り返さないことを祈っている。