積極的に外出したという記録はない

難路はまだ続き、湯尾峠(福井県南越前町)を越えてやっと越前国府(越前市)に到着した。敦賀から先で詠んだ歌は『紫式部集』に載せられていない。このため倉本一宏氏は「よほどたいへんだったのか、思い出したくなかったのであろう」(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)と記す。

いまでは京都から、越前国府があった武生までは、特急と北陸新幹線を乗り継げば1時間半足らず、自動車でも2時間余りで到着するが、当時の都の人にとって、越前は遠く離れた国だった。『延喜式』には都からの日程は「四日」と記されているが、これは租税を運ぶための日程で、国司が下向する際は同行者や荷物も多く、もっとかかったと考えられる。

さて、遠い越前国で、紫式部はどう過ごしたのだろうか。「光る君へ」では、宋の人々と積極的に交流するようだ。それはドラマだからいいとして、少なくとも、紫式部が越前で積極的に外出したという記録を見出すことはできない。

都より寒い越前で初雪を迎えると、彼女は「暦に初雪ふると書きつけたる日(暦上に『初雪が降った』と書きつけた日)」に、次のような歌を詠んでいる。

「ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松に今日やまがへる(こちらでは日野岳に群生する杉を埋め尽くすように雪が降っていますが、京都の小塩山の松にも、入り乱れるように雪が降っているのでしょうか)」

思いはいつも都に向かっていた

紫式部が書きつけた「暦」がなにを指すのか、正確なところはわからない。ただ、当時は毎年11月、陰陽寮の暦博士が1年分の暦(具注暦)をつくって、宮中のほか中央および地方の官庁にも配布していた。

漢文に通じる紫式部が、父の暦に目を通していても不思議ではない。伊井春樹氏は「女性が暦をみて、どのような日なのかを確かめる習慣はないと思われるので、紫式部は父の事務的な処理もしていたと想像されてくる」と書いている(『紫式部の実像』朝日選書)。

とはいえ、紫式部の思いは「小塩の松」に、すなわち、あくまでも都に向いているのはあきらかである。

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雪は次第に、日野岳のような山ばかりでなく、平地にも降り積もる。国府の人々が雪をかいて小山のように積み上げると、女房たちは珍しがり、そこに登ってはしゃいでいる。しかし、紫式部は呼びかけられても、うっとうしく感じるだけだった。

「ふるさとにかへるの山のそれならば心やゆくとゆきも見てまし(その雪山が、故郷の都へ帰るという名の鹿蒜山であるなら、心も晴れるかと思って、行っては雪を見てみたいものですが、そうではないので……)」

ちなみに、鹿蒜山は越前の山だが、都に帰るときにはそこを越える必要があった。