為時が活用したかったまひろの能力
『今鏡』などに掲載されている説話によれば、淡路守に任じられたとき、為時は以下の漢詩を書いたという。「苦学の寒夜 紅涙襟をうるほす 除目の後朝 蒼天眼に在り(厳しく寒い夜も学問にはげみ、血の涙で襟を濡らしてきたが、除目の結果を知った翌朝、目には青空が映るだけだ)」。
要するに、努力をしてきたのに、所詮は下国の国守――という嘆きである。これを一条天皇が読んで感涙し、それを受けて、藤原道長が為時を越前守にした――という話になっている。
むろん、説話だから史実かどうかわからない。ましてや「光る君へ」では、この漢詩を添えた為時の申文は、まひろが書いて道長(柄本佑)のもとへ届け、まひろの筆跡を確認した道長が為時を抜擢したように描かれたが、これはドラマの創作である。
とはいえ、為時が漢詩文に通じていていればこそ越前守に抜擢された、ということは、まちがいなさそうである。第20回でまひろは為時に「越前は父上のお力を活かす最高の国だから、胸を張って行かれませ。私もお供いたします」と、笑顔で告げた。史実の紫式部も父に同行し、越前に赴いている。
為時には一緒に下向する妻がおらず、長女もすでに亡くなっていたので(ドラマには登場しないが、紫式部には姉がいた)、紫式部が同行したことに違和感はない。また、紫式部も漢詩文に通じていたので、為時は娘も宋人との交渉に役立てたかった、と考えても無理はないだろう。
3つの歌からわかる不安
父娘が越前に下向したのは、長徳2年(996)の夏以降のことだった。都を出発した為時一行は、粟田口から山科を経由して逢坂山を越え、大津の打出浜(現在の滋賀県大津市松本町あたり。湖岸が埋め立てられ、びわ湖ホールなどがある)に出ると、そこからは船で琵琶湖西岸を北上した。その途上で紫式部は、さっそく歌を詠んでいる。
「三尾の海に網引く民のてまもなく立ち居につけて都恋しも(琵琶湖西岸の高島の三尾の崎で、漁のために綱を引いている漁民が、手を休めずに、立ったりしゃがんだりしているのを見ていても、都が恋しいものです)」
これまで都にしか住んだことがなかっただけに、早速、故郷が恋しくなったのだろう。また、当時の旅は危険と隣り合わせでもあったから、不安も募ったものと思われる。
「かきくもり夕立つ波のあらければ浮きたる船ぞしづ心なし(空が暗くなって、夕立になるときの波が荒いので、その波に揺られている船の上では、心が不安で落ち着きません)」
琵琶湖北岸の塩津(長浜市西浅井町)に上陸すると、国境の塩津山を越えて敦賀(福井県敦賀市)に入った。そこはもう越前である。そして山を越えたところで、彼女の輿をかつぐ人足たちに諭すように歌を詠んだ。
「知りぬらむゆききにならす塩津山よにふる道はからきものぞと(わかったでしょう、あなたたちは往き来に慣れている塩津山だけど、世を渡っていく道としては、塩という名であっても、つらいものだと)」
むろん、諭しているように聞こえて、これからの越前での暮らしへの不安が詠まれているものと思われる。