「人間の感覚」を機械に取り入れる

泉井安吉は幸運に恵まれた男だった。

海に落ちても生き残ることができた。資金がなくなったとき、弟が助けてくれた。そして、念願のラインホーラーを発明し、改良することができた。だが、幸運と同じくらいの不運に巡り合った。改良版ラインホーラーは出したと思ったら、室戸台風で町が被災した。そのうちに第二次大戦が始まり、10年以上、思うように生産ができなかった。敗戦後、日本の商船、漁船は激減していた。残った漁船で漁を始めようとしても、占領軍が活動を禁止した。GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーは日本漁船の活動可能領域を定め、海上に引いたわずかな範囲、マッカーサーラインのなかだけでしか操業を許さなかったのである。マッカーサーラインが廃止されたのは占領が終わった1952年のことだ。

ラインホーラーは戦前には完成していた。だが、実際に多くの漁船に載るのは戦後のことだったのである。

社長の北村はこう言った。

「ラインホーラーは人間の感覚を取り入れた機械です。ウインチだったら、一定の速度で巻くだけで、それを作るのは難しいことじゃありません。しかし、縄にマグロがかかったときとかかっていないときの負荷は全然違うんですよ。かかったとき、無理やりウインチで力を入れて巻き揚げたら、魚の口がちぎれたり、釣り糸が切れてしまう。やっぱり人の感覚が重要でした」

戦後、1950年代後半から日本のマグロ漁は全盛期を迎えた。それは主に遠洋の延縄船が担っていたのである。

「昭和後期、我が国の遠洋漁業は最盛期を迎え、その生産量は、ピークとなった昭和48(1973)年には400万トンに迫り、我が国の漁船漁業生産量全体の約4割を占めるまでになりました」(水産庁「漁業生産の状況の変化」より)

ここにある遠洋漁協のほぼすべてはマグロ船だ。遠洋に行って漁をして利益が上がる魚種はマグロくらいのものだ。そこで、昭和の海の男たちはアフリカ沖、ニュージーランド沖まで遠征したのである。むろん、いまでも遠洋に行っている漁師はいる。