「人力で巻き揚げれば必ず誰かが海に落ちる」
1902(明治35)年、泉井安吉は室戸に生まれた。父親は地元の漁師。主に沿岸に寄ってくる鯨を獲っていた。
「鯨一頭揚がれば七つの浜が潤う」と言われるくらい、室戸に大きな恵みをもたらしていたのが鯨だった。だが、その鯨が明治時代になると浜に寄りつかなくなる。同時期、ノルウェーから捕鯨砲を使うヨーロッパ式捕鯨が伝わり、鯨漁は沿岸、近海から遠洋へと漁場が変わっていった。代わりに室戸で盛んになったのが鰹、マグロの延縄漁だった。安吉は小学校を出た1917(大正6)年、マグロ延縄船にカシキ(調理担当)として乗り組み、飯炊きをしながら、漁労作業を手伝った。安吉が乗り組んだ船は初夏から秋まではカツオ漁、冬はマグロ漁を行っていた。当時の船は木造船だ。揚げ縄作業では寝る時間もなく、縄を手で手繰り寄せて引き揚げなくてはならない。睡眠不足でふらふらしたところに大波がやってきたら、たちまち海へ投げ出されてしまう。安吉は真冬の漁で、一度、海に落ちたことがあった。現在のように救命胴着を着けているわけではなかったから、海に落ちたら、低体温症で死んでしまう。だが、安吉は幸運だった。じたばたせず、上を向いて浮いていたところ、船が回頭して戻ってきたのだった。安吉が落ちたことに気づいた船頭が船を回してくれたのである。安吉は自分が運を持つ男だとそのとき、気づいた。
乗り組んでから1年後、彼は船を下りることにした。
「人の力で、手だけでマグロを巻き揚げていたら必ず誰かが海に落ちる。人の力ではなくて機械でマグロを巻き揚げることはできないものか」
船を下りて自宅にいた安吉に「大阪に来てみないか」と誘ったのは従弟の泉井弥助だった。弥助は室戸を出て、大阪の町工場「深川鐵工所」に住み込みで働いていたのである。安吉は従弟を頼り、大阪に出ていき、同じ工場で働くことにした。仕事をしながら機械設計を学び、ゆくゆくは「マグロを巻き揚げる機械」を自分で作ってやろうと思ったのである。だが、寝る時間を削り、休みも返上して出勤した安吉は体を壊してしまう。当時、不治の病といわれていた脳膜炎にかかり、倒れてしまった。
「ヤスキチ、キトク」の電報を受け取った実母は室戸から大阪へ向かい、昏睡していた安吉を高知に連れ戻すことにした。たまたま大阪に寄港していた高知の捕鯨船に安吉を乗せて戻ってきたのだった。母親の懸命の看病で命を取り留めた安吉はそのまま療養生活に入る。
1年後、健康を取り戻した彼は神戸にある発動機(エンジン)の製造工場、山陽鐵工所に勤めることにした。同社は主に焼玉エンジンを作る工場だった。焼玉エンジンとは焼玉と呼ばれる鋳鉄製の球殻状の燃料気化器を使って燃焼を行うレシプロ内燃機関のこと。火花で点火する石油燃料の発動機と比べれば点火プラグなどの電装系がなく、簡便な構造で製造は難しくなかった。しかも、エンジン本体の価格を安くすることができたので、20世紀前半、世界各国で汎用エンジンとして普及していたのだった。
安吉は山陽鐵工所で5年間働き、1923(大正12)年、21歳のときに室戸に戻ってきた。焼玉エンジンの専門家となっていた彼は市内の浮津下町に工場を建てる。資金は実家を担保にして地域の金融機関から借金したのだった。