ハリス氏の母は「インド出身の移民」
「私の母、シャーマラ・ゴーパーラン・ハリスは自然の力なのです。同時に、私の人生で最も私を励ましてくれる存在なのです」、と女性の歴史月間(*2)に自分の母親をこう讃え、さらに、「私と妹のマヤに努力することと間違いを正す力を信じることの大切さを教えてくれたのです」とツイートした。
*2 1987年に始まった慣習で、3月を歴史や文化に貢献した女性を讃える月間とした。
シャーマラ・ゴーパーランは150センチをやっと上回るぐらいの身長だった。彼女が生まれた9年後の1947年に英国からの独立を勝ち取った国インドの成功した上級官僚だった家庭の4人の子供の最年長だった。1958年、19歳でインドのニューデリーにあるレイディ・アーヴィン大学を卒業した。家政学が専攻だった。父親の勧めで、彼女はより高度で、より有意義な教育を求めて、カリフォルニア州のバークレーを訪れた。ここで栄養学と内分泌学を学んだ彼女は博士号を取得し、その後数十年で乳癌研究の分野で認められるようになった。彼女の論文は他の人の論文に100回以上も引用された。また彼女の仕事に対しての資金提供で最低476万ドルを獲得していた。
「黒人学生の集会」での出会い
2019年に出版した自伝でカマラ・ハリスは「私の母は政治に積極的に関わることと、市民の生活で指導的立場を取ることをごく当たり前と捉える家に育った」と書いている。「私の祖父母から、母は熱心な政治意識を受け継いだのです。歴史とか、闘争とか、不平等とかに高い意識を持っていました。その魂に強い正義感を持って生まれてきたのです」
1962年秋に、シャーマラ・ゴーパーランは黒人学生の集会に出た。そこで演説したのがジャマイカ出身のドナルド・ジャスパー・ハリスだった。経済学者になることを目指していた若い大学院生だった。彼は多少過激だった。いや、経済学者たちが言うところの「異端者」だった。当時アメリカ国内の大学で好まれていた伝統的な経済学理論に固執していなかった。彼がのちに「ニューヨーク・タイムズ」紙に語ったところでは、伝統的なサリーを着たゴーパーランが、演説の後で彼の所にやって来たという。「男女の集団の中の誰と比べても、彼女はその容姿が際立っていました」。彼は魅了されたのだ。その後、数回会って話をした。そして、彼が言うには、「このこと以外は、いまや歴史です」