そこでめざされる「他者との共生」がかつてのような家族の復活であるのか、あるいは別のかたちの共同体モデルになるのか、確定的な見通しは私にはない。
家族に代わる「親密圏」を唱える人たちの中には、「強者連合」を理想とする人たちがいる。高い社会的地位をもち、安定した収入があり、趣味がよく、知的会話が楽しめるような人たちだけが集まって、愉快に暮らす共同体モデルを提唱した社会学者がいた。だが、その共同体のメンバーのひとりが失職したり、財産を失ったり、病気になったり、変な宗教にはまったら、どうなるのか。人々はその人がとどまることを望まないだろう。
家族というのは、逆にそのような「困った人」を受け容れ、扶養し、支援することをこそ主務とする制度である。私たちは誰でもかつては幼児であり、必ず老人となり、しばしば病人となる。個人の社会的能力がもっとも低いときを基準にとり、そのときでも共同体のフルメンバーとして愉快に過ごせ、自尊感情を維持できるように共同体は制度設計されなければならない。その点から言えば、さしあたり近代家族に代替しうるシステムを私は思いつかないのである。
※すべて雑誌掲載当時
1950年、東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院博士課程中退。2011年神戸女学院大学文学部教授を退職し、現職。専門はフランス現代思想、映画記号論、武道論。07年『私家版・ユダヤ文化論』で第6回小林秀雄賞を受賞。『日本辺境論』で新書大賞2010を受賞。