だが、家族内合意が形成されない限り、消費行動が始まらないというのは、消費社会的には憂慮すべき事態である。消費社会は「欲しいものがあれば、返すあてのない借金してでも今すぐに買う人間」を理想とするからである。消費単位が家族である場合、合意形成手続きがまず消費活動を鈍化させる。さらに家庭は借金を嫌う。借金するとしても親戚から借りる。親戚は無担保無利子で金を貸してくれるが、その代わりに使途についてはうるさい。「ベンツを買いたいのですが」というような申し出は一発で却下される。

「身の程を知れ。お前なんか軽四で十分だ。だいたいお前は昔から計画性がなくて……」というような小言を覚悟しなければ、借金の申し込みはできなかった。「身の程」を決めるのは他者である。親族の絆が深い社会では、商品購入によって「自分らしさ」を表現する道筋は二重三重に遮断されていたのである。それゆえ、消費社会は消費単位を家族から個人に移行することに全力を傾注した。それに、不動産家具什器の類は家族単位で生活していれば一家に一式で足りるが、家族が解体して個人がばらばらに暮らすようになれば、人数分だけ需要が生じる。つまり、家族解体は「市場のビッグバン」を意味していたのである。

人類史上例外的な「幼児のままでいい社会」

だから、消費社会が「家族は解体されねばならない」と宣言したのは当然のことだった。夫も妻も子どもたちも、かつてにこやかに「ちゃぶ台」を囲んでいた全員が、自分に強制されていた「夫らしさ」や「妻らしさ」や「子どもらしさ」のイデオロギー性に気づき、それぞれの「自分らしさ」を求めて、家族を離れてゆく……という物語を私たちはそれこそ吐き気がするほど服用させられた。消費社会の始まった80年代は、映画もドラマも小説もCMも「そんな話」で埋め尽くされていた。

学術の世界も例外ではない。フェミニズム家族論と、「アダルト・チルドレン」論は消費社会にジャストフィットする社会理論であった。というのは、どちらも実践的な結論は「家族と一緒に暮らすのは心身の健康によくない」というものだったからである。カウンセラーや社会学者に悪意があったと私は思わない。たぶん彼ら彼女らは個人的経験を踏まえて、善意からそう主張したのであろう。