裁判官として順調なキャリアを築くも「総力戦研究所」へ

「(父親の忠彦は)家庭では(他)人と話す程には話しませんでした。(中略)子の教育についても、子の志望を制限するようなことはなく、例えば私を司法官にしたいと早くから思ってはいたらしいのですが、これも一度も私に向かって口にしたことはありませんでした。たまたま私が法学部の学生であった頃、親戚の通夜の席で息子を司法官にしようと思っていると語っているのを、かなり離れた場所で耳にして父の希望を知ったぐらいです」(俳句雑誌『千鳥』1953年4月号)

昔の日本の家庭らしく、ベタベタしない、ある意味、不器用な父親と長男の距離感だったようだが、その父の願望どおり、帝大生でも合格が難しい高等試験をクリアした乾太郎は、さぞかし自慢の息子だっただろう。乾太郎は東京地方裁判所、高校時代を過ごした水戸の地裁などで、順調に裁判官としてのキャリアを積んでいく。しかし、太平洋戦争が起こった昭和16年(1941年)、その運命は一変する。

ドラマでも描かれた「総力戦研究所」。これについては、猪瀬直樹氏の『昭和16年夏の敗戦』が詳しい。1941年12月、日本がパールハーバーを空爆しアメリカに戦争を仕掛ける約半年前、30歳前後の官僚など、各界のエリートたちが30人ほど集められ、「もしアメリカと戦争をしたら、日本は勝てるのか」というシミュレーションを行ったという。

負ける戦争を止められなかったというエリートゆえの苦悩

東京地裁に勤めていた乾太郎はその模擬内閣で司法大臣というポジションとなり、他のメンバーと共に活動したと思われるが、どういう発言、主張をしたかという記録は残っていない。戦後になっても本人も明かしていない。実は、もともと司法省からは他の人物が推薦されていたのだが、健康診断で結核であることが判明し、乾太郎が代理で選ばれたのだという。

乾太郎たち官僚は、その頭脳と知識を活かし「戦争したら、日本は負けます」「そのうち石油が補給できなくなるし、ソ連が参戦したら詰みます」と、かなり正確な予測をしたのだが、その報告を受けた政府中枢、軍部は「日清、日露戦争のように戦争はやってみなきゃわからん」と無視して開戦へと突き進んだ。これではシミュレーションの意味がない、と総力戦研究所のメンバーが落胆、失望したことは想像に難くない。

ドラマでも航一がそのトラウマを抱え、戦争で家族を亡くした人たちに「ごめんなさい」と泣いて謝っていたように、わかっていたのに避けられなかったという悔しさ悲しさは、乾太郎の人生に影を落としただろう。乾太郎はこのミッションを与えられる前、昭和15年(1940)の「河合事件」と呼ばれる思想弾圧事件の裁判では、3人の裁判官のひとりとして、軍部批判をして著書の発禁処分を受けた東京帝国大学経済学部教授・河合栄治郎を無罪にしている(のちに控訴され有罪に)。思うところが何もなかったはずはない。

河合栄治郎〔写真=『河合栄治郎伝記と追想』(社会思想研究会出版部、1948年)/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons