戦争で心の傷を負った乾太郎と嘉子は自然に惹かれ合った

ちなみに乾太郎は昭和19年9月から領事に任命され、中国の北京に異動している。資料では確認できないが、翌年の終戦の瞬間を北京で迎えたとすると、日本に引き揚げてくるまでにも命懸けのエピソードがあったのではないだろうか。

一方で和田嘉子(当時)も、夫が戦病死し、その死に目に会いに行けなかったことをずっと悔やんでいた。ドラマで描かれるように、二人が戦争で負った心の傷を共有し、それを癒やすように愛情を寄せ合い結ばれたというのは、リアルだったのかもしれない。

武藤嘉子(後の三淵嘉子)、昭和13年(1938)頃の撮影
武藤嘉子(後の三淵嘉子)、昭和13年(1938)頃の撮影(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

三淵乾太郎を知る人は、彼が「美男子」で「紳士」だったという証言を残している。司法省の野球部のメンバーであったり、運動会の徒競走で活躍したり、後年はゴルフにはまってプロを目指したらと勧められるなど、スポーツも得意だったようだ。ドラマで描かれるように麻雀も好み、要するに、口数の少ない紳士だけれど、遊びで競争するのは好き。

乾太郎と4人の子をもうけた祥子夫人とのラブラブな逸話

前妻、祥子は大正2年生まれで9歳下。二人の間には4人の子が生まれ、女の子が3人続いて、ようやく4人目に男子を授かる。その娘たちから言わせると、乾太郎はロマンチストでさびしがりや。もちろん、愛妻家だったらしい。後年、ゆかりのあった小田原元市長・鈴木十郎の遺稿集に文章を寄せ、こんなエピソードを明かしている。

「ひまがあると、市長室をお訪ねして、よもやまの話をうかがうのが、私の楽しみの一つだった。(中略)ある日、私が、女心と秋の空と言ったのを、妻が聞きとがめて、男心と秋の空だと言ってきかない。それでは市長の裁断を仰ぐことにしようと、二人して出掛けて行った。鈴木さんは、面白い話題ですなと、ニコニコされて、諺語大辞典を持ち出して来られた。それには『人の心と秋の空』と出ていて、われわれの論争は引き分けに終わったが、“Woman is as freckle as April weather”(※原文ママ。「Woman is as fickle as April weather.」の間違いと思われる)という言葉が引用してあったから、私は、内心では、勝ったと思っている」
(『鈴木十郎 遺稿と追想』1977年)

秋の空模様のようにコロコロと変わりやすいのは女心か、それとも男の方か。祥子夫人とそんなやりとりをしていたと思うと、微笑ましい(このエピソードは嘉子夫人との話だという可能性もある)。乾太郎はそんな愛する妻を病気で亡くしてしまい、落胆している中、実母が推薦してきた嘉子との再婚話を進めることにしたという。