昔の学歴エリート層が「文学全集」を揃えた理由

三宅 古市さんは目的ありきの読書ですよね。調べるだけならネット検索やChatGPTでもそれなりの情報が手に入ります。それでも古市さんが今、本を読む理由って何ですか。

古市 著者なりの見方に触れられることが今も本を読む最大の理由です。

この前、万博のあったスペインのセビリアという街を訪れたら、朝方にビルの前で行列ができていました。何だろうと思ってChatGPTに質問したら、「聖週間の儀式についてのガイドブックを配っている」と教えてくれました。その場で知りたい情報を得たいなら、たしかにAIは便利です。

しかし、情報の精度では本のほうが上です。本は編集者や校閲など、著者以外にもさまざまな人の手が入ります。また、ある程度売れたものなら第三者のレビューも参考になる。中にはトンデモ本もありますが、僕はまだ本というパッケージに信頼を置いています。

ただ情報の精度が高ければいいという話でもありません。よくあるのが、あるテーマについて、さまざまな文献から引用してまとめた本。それだったらAIに論文を読ませて要約させたほうがいい。きっと人間より上手にまとめてくれますよ。僕が読みたいのは、著者なりの解釈や切り口がある本です。

例えば三宅さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』も、読書と労働の歴史を概観しているだけでなく、三宅さんなりの視点で貫かれています。

三宅 学術的な論文と批評の違いがあるのかもしれません。読書と労働の歴史を論文にまとめあげようとすると、もっと網羅性が必要だし、一つひとつにエビデンスが求められます。

一方、批評は自分の解釈であり、読み手に視点を与えることが目的。私は批評をやっているつもりなので、私の本を「著者の視点がある」と評価してもらえるのはうれしいです。

古市 個人的には、本の構成が二重構造になっているところが興味深かったです。最初に問題提起があり、最後は本を読みたくても読めない人へのアドバイスで締められている。本を読めるようになりたい人は、最初と最後だけ読んで実践すればいい。一方、真ん中は労働と読書の歴史について書かれていて、「昔の人も案外忙しくて本を読めなかったのか」とわかります。

三宅 『花束みたいな恋をした』の感想を見ていると、麦くんに自分を重ねて共感する一方で、「麦はオタクとして努力が足りない」「本を読めないのは自己責任」みたいなマッチョな読書思想も目立ちました。

でも、それって文化や社会、経済の資本に恵まれてきたエリート階層の意見ですよね。普通の労働者はどうだったんだろうと疑問に思って、真ん中は階級と読書の関係を歴史的に見ていく構成にしました。

古市 そもそも昔の学歴エリート層も本は読めてなかったんですよね。三宅さんの本では、昭和初期に円本――1冊1円の装丁が立派な文学全集――が流行ったことが紹介されていました。文学を読むためではなく、書斎にインテリアとして飾り、読んでいるフリをするためだと。

こういう視点を知れば、今も変わらないなと思えます。

例えば本をたくさん読んでいるとアピールするわりに、何年も前からユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』の話しかしないビジネスパーソンっているじゃないですか。

昔も今も、本を読めてないことをコンプレックスに思って見栄を張る人がいるし、みんながみんな本を本当に読めているわけでもない。「本が読めない」と悩んでいる人には、ある種の救いになりますよね。