ものを知っていても、バカはバカ

知識の加工能力がないという時点で、わたしなどは「ものは知っていても、頭悪いな、この人」と失礼ながら感じてしまうのです。

この手のタイプは、「学歴をはじめとして高いスペックと知識をもっているのに、何か残念だな」という印象を人に与えます。

しかし、なぜこのようなもの知り礼賛現象が起きてしまうのでしょうか。

先に例に挙げた芸人も、言ってみれば「すごいもの知り」ではなく「単なるもの知り」にすぎません。「もの知り業」という職業があるのであれば成立するのかもしれませんが。

しかし、現実の世界では、もの知りになることを究極の目的にしたところで、それはまったく性能の悪いスマホにさえなれないというレベルの話になってしまうわけです。

AIのシンギュラリティにどう対応するかが論じられているこの時代に、ある知識をひけらかしたところで、すぐに相手にそれ以上の内容の知識をスマホで検索されてしまうわけです。

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つまり、こうなると知識の獲得だけを目的にすることには意味がないということになります。

知識を百科事典や耳学問で地道に増やしていかなければならなかった昔なら、一定レベル以上の知識をもっていれば、「へぇすごい」という話になったでしょう。しかしこれからは、

知識量の多さは頭のよさを保証しない。

知識量の多さだけでは優位性は保てなくなる。

この点はきちんと押さえておくべきでしょう。

わたしたちに必要なのは、知識をふまえて、どのように「自分独自のものの見方、考え方を展開できるか」、つまり「知識を思考の材料としてどう活用できるか」、そのことに尽きるのです。

もの知り礼賛のこの国では、それでもクイズチャンピオンを称え続けるのかもしれません。

クイズ番組をよく見るという人と話したとき、彼女は「知識系クイズ番組を見ると知識に結びつくから、頭がよくなると思う。子どもの勉強にもよい」と言っていました。

しかし、残念ながらもの知りクイズをいくら見たところで、頭はよくなりません。一瞬「へぇそうなのか⁉️」と感心して、知識を生かすこともなく忘却してしまうのがオチなのです。

「常識・理論・学説」は絶対的真理ではない

知識の多さを賢さの証しとして称賛しがちなこの国では、同様に常識(定説)、理論・学説などについても、何ひとつ疑うことなく、絶対的真理として信奉してしまう傾向がしばしば見られます。

しかし、そもそもある時代に支持されている知識や常識、理論・学説などは、これを下支えする前提条件が変われば、当たり前のことですがその都度、書き換えられていくものなのです。

たとえば20世紀の医学は「人体構造はみな同じである」という前提条件のもと、個体差を考慮しない医療が当たり前でした。ですから、ある疾患に対しては、どの患者にも同一の治療を施すということが行われていたわけです。

しかし、同じ治療をしても、ある患者には効果が見られるが、ある患者には効果が出ないという奏効率の差が問題になってきます。これが「人体構造はみな同じである」という20世紀型前提条件の限界でした。

こうしたことから、近年では「人体構造には個体差がある」という前提条件に変わってきています。今世紀に入ってから遺伝子のゲノム解析が飛躍的に進み、診断・治療法の研究開発も加速度的に進展しています。