ポツダム宣言を「黙殺」した本当の理由

【保阪】そうこうしているうちに七月二十六日にポツダム宣言が発表されました。二十八日に新聞記者からどうするつもりか問われた鈴木が、「そんなものは黙殺するよ」とコメントして、それが翌日の新聞に大きく取り上げられてしまった。世界のメディアによって「日本政府はリジェクト(拒否)した」と訳され全世界に伝わって、ソ連に参戦の口実を与えてしまう。この点について批判する人はいるのですが……。

【半藤】ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議は八月九日夜から十日未明にかけて開かれました。国体護持の確認を条件に受諾すべきだという東郷茂徳外相案と、国体護持のほか自主的武装解除、占領は東京を除外するなど四条件が認められないかぎり徹底抗戦すべしという阿南惟幾陸相ら軍部が対立します。そこで鈴木首相が最終判断を天皇に求めた。天皇は外相案に賛成して受諾が決まりました。ところが、まだ戦争を終わらせることはできなかったわけですね。

日本政府が国体護持を条件にしたポツダム宣言受諾を十日、連合国側に通告すると、これに対して届いた回答には、冒頭、「天皇及び日本政府の国家統治の大権は連合軍最高司令官の下に置かれる」とあって、さらに「日本政府の形態は日本国民の自由意志により決められる」という一文があったからです。軍部は前者について「国体を否定するもの」と断乎反対。後者も共和制を導くものとして反対しました。でもここで、天皇はぶれなかった。「自分はこれで満足であるから、すぐ所要の手続きをとるがいい」と明言した。かくて聖断は下り、ついにポツダム宣言受諾が決定されました。

陸軍始観兵式で「白雪」号にまたがり閲兵を行なう昭和天皇(写真=朝日新聞社『週刊20世紀 皇室の100年』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」

【保阪】御前会議から玉音放送までの道のりが、これまた平坦ではないのですが、そのあたりは、半藤さんの『日本のいちばん長い日』を読んでいただくことをお奨めします(笑)。

【半藤】ありがとうございます(笑)。ひとことだけ付け加えておくと、八月十五日、天皇は、辞表を差し出したフロック・コート姿の首相、鈴木貫太郎に「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」と声をかけているんです。鈴木と天皇、まさに二人三脚でゴール・テープを切りました。

【保阪】そのあと鈴木は官邸でただひとり泣いていたそうです。御子息のはじめさんの証言です。ところで、左近司も鈴木をこう評しつつ、自分の談話を締めています。

鈴木さんは、生前自ら「大勇院殿盡忠日貫居士」と戒名を作っておられたそうだが、まさにその通りの鈴木さんであった。私は、鈴木さんの知遇を受け、親しくその偉大なる人格に接し、自らを啓発したことを深く光栄とし、個人を追懐敬慕して止まないものである。

ここからは、心からの賛辞であることがしみじみと伝わってきますね。