捨てるからこそ、本当に大切なものに気づく
いま振り返ると、終活でかけがえのない2つの体験がありました。
ひとつは、夫婦で過ごした時間に改めて向き合えたこと。
たとえば昔、海外ブランドの旅行用トランクを購入しました。そうしたら、とても重たくって持ち運ぶのも一苦労。私が「どうするの?」と聞くと中尾が「これがいいんだよ」と話していました。結局、重すぎたせいで、ほとんど使いませんでした。いつしか私が掃除するときのドアストッパー代わりになって、傷だらけになってしまいました。
そんなトランクを前に「だから無駄だって言ったのに」と笑いながら昔話をするんです。そんなふうに、ひとつひとつの物にまつわる、夫婦の些細な思い出を語り合いながら片付けました。
私たちは、46年の結婚生活を送りましたが、古い話ができるのは、長い歳月を一緒に暮らした証しであり、明るく笑い合えたのはいい関係を保てているからだという実感がわいたのです。
もうひとつ、人生の棚卸しをしていて、わかったことがあります。それが、捨てようとしても、どうしても捨てられないモノが人にはあるということ。
ある日、中尾が家を整理していたら、父の字で書かれた半紙の巻物が出てきました。私の父で落語家の金原亭馬生が、ある番組で「娘さんに贈る言葉を書いてください」と頼まれて書いてくれたものでした。そのなかにこんな一節があります。
〈イザと云う時は人は助けてくれない/自分しかない/それを忘れないよう〉
若い頃、さほど考えもせずにどこかにしまい込んでいたのでしょう。見つけたあとは、後生大事に額に飾っておきました。
でも、終活をするうち、大切なのは巻物そのものではなく、父が私に贈ってくれた言葉であり、父の気持ちなのだ、とわかりました。私はこの言葉を生涯忘れないでしょう。終活とは自分にとって大切な捨てられないモノに気づく旅なのかもしれない。父の言葉との再会が、もうひとつの気づきをもたらしてくれたのです。
「中尾は逝き方も名人だった」
中尾は81歳までがんばって生きてきました。年齢を重ねて病気もたくさんしたから、そんなに遠くない将来、老いて衰えて亡くなるか、病気が悪化して生涯を終えるか、中尾自身にも、私にもわかっていました。
あとは、どう逝くか。
中尾は私やお医者さんと相談しながら、いざというときの望みを語ったことがありました。
「足腰が痛くなり、ひんぱんに病院に通えないから主治医の先生に時々往診してもらいたい」「体にメスは入れない」「延命治療はしない」「体を管でつながれるのはイヤだけど、痛み止めはお願いしたい」「自宅で看取ってほしい」「お葬式はしない」……。
体調に波があるから、調子がいい時期は外食や旅行を楽しんだり、仕事をしたりしていましたが、年齢のせいか、調子が悪い日が徐々に増えていきました。そして5月15日に容態が急変し、翌日の夜中、自宅で私と2人のときに、本当に眠るように息を引き取りました。中尾は自分が思い描いたように、とても穏やかに旅立ったのです。「中尾は、逝き方も名人だったんだね」と褒めてあげたいほど見事な亡くなり方でした。
それでも感じるのです。
人はいつか必ず亡くなります。それはわかっていましたが、私にとっては、あまりに急な別れでした。もっと長生きしてほしかった。もっと何かしてあげられたのではないか……。うらやましいほど立派な最期だったと言いながらも、どうしても後悔が募ります。いえ、最愛の夫の看取りを経験したいま、後悔がない看取りなんてありえないのかもしれないと考えるようになったのです。