定子が亡くなった夜に道長が見た怨霊

ドラマでも描かれたが、定子は3人目の子を身ごもっていた。そして、第二皇女の媄子を出産したのち、後産が下りずに命を落とした。享年は数えで24歳という若さだった。

道長は定子の死に安堵したことだろう。すでに彼女は一条天皇の第一皇子である敦康親王を出産していた。このまま敦康親王が春宮(皇太子)になり、即位をすれば、伊周ら中関白家の面々が外戚として力をもちかねない。そうなれば、道長は立場を追われるかもしれない。

だからこそ、彰子を中宮にして一条天皇にプレッシャーをかけ、財力に頼って彰子のサロンを、一条が惹きつけられる魅力的な場として整えようとした。しかし、定子さえいなくなれば、敦康親王は存在しているものの、彰子が一条の皇子を出産する可能性も出てくるだろう。

ところが、道長はその後も定子に苦しめられることになった。まず、定子が亡くなった長保2年12月16日のこと。悲報を受けた一条天皇は、最高権力者である左大臣道長を内裏に呼んだが、そのとき道長は自邸で怨霊に襲われ、参内できる状況ではなかったというのである。

しばらくして参内した道長が語った内容が、ドラマでは渡辺大知が演じている藤原行成の日記『権記』に記されている。それによれば、女官の藤典侍がなにかを手にして道長に襲いかかってきたという。道長はそれを「怨霊」と認識。具体的には、最初に放った言葉から長兄の道隆の霊のようで、また、次兄の道兼の言葉のようでもあったという。

実は病弱だった道長

これについて、山本淳子氏はこう書く。「定子は道長にとって、小癪にも天皇に愛され続け、后として復活までして彰子の前に立ちはだかる邪魔者だった。道長は露骨に定子をいじめた。その定子の崩御は、またしても彼に転がり込んできた稀有な〈幸ひ〉だった。しかしそれは、これまでの〈幸ひ〉と同様に、人の死という不幸であった。おそらく道長はやましさから恐怖に怯え、女官・繁子(註・藤典侍のこと)に起こった何らかの異常事態を道隆らに結び付けて、霊による報復と確信したのである」(『道長物語』朝日選書)。

話は前後するが、第28回「一帝二后」では、道長が倒れて一時は危篤になる場面も描かれた。「光る君へ」のなかでは、これまで道長は健康な青年として描かれてきたが、史実の道長は生涯にわたって何度も倒れており、かなり病弱だった。

実際、一帝二后が実現しておよそ2カ月を経た4月23日にも発病。続いて5月19日には、次兄の道兼の怨霊が道長に憑き、25日なると、今度は長兄の道隆の霊が乗り移ったという。後者については、行成の『権記』によれば、「伊周をもとの官職、官位に戻せば、道長の病も癒える」と、道隆が道長をとおして訴えたという。

まだ定子への「いじめ」を続行している最中にも、道長はそれに対する疚しさ、うしろめたさを感じ、体調を崩したり、定子の親である兄の怨霊が乗り移ったような言葉を発したりしたのかもしれない。