「日本とアメリカは運命共同体である」中曽根政権が成立していた

聞き置くだけの高木だったが、墜落事故の起きた年の12月18日に社長を辞した後も8月12日になると、御巣鷹の尾根への慰霊登山を繰り返していた。

墜落事故当時、1945(昭和20)年8月15日の太平洋戦争の終結から40年がたっていても、まだ日本はアメリカに完敗したという敗戦色が消えず、日米関係はアメリカ優位の状態が続いていた。

そんななか、政界で頭角を現し、勢いを増していた中曽根康弘が政権を握る。

1982(昭和57)年11月27日に第1次中曽根内閣を成立させると、中曽根はアメリカとの関係を重視し、日米関係を揺るぎないものにしようと考えて翌年すぐに渡米、日米首脳会談(1983年1月18日、19日)で「日本とアメリカは運命共同体である」と強調し、強固な日米関係を作り上げていく。

史上初めての「ロン・ヤス関係」

このときの渡米で中曽根は大統領のロナルド・ウィルソン・レーガン(1911年2月6日〜2004年6月5日、享年93歳)と会食をする。

レーガンが「私をロンと呼んでくれ。あなたをヤスと呼びたい」と語り、それ以来、2人は「ロン」「ヤス」とファースト・ネームから取ったニックネームで呼び合うことになる。

首脳同士がニックネームで呼び合うなど日米の歴史のなかで初めてのことだった。

映画俳優を経てカリフォルニア州知事から第40代大統領に選ばれたレーガンは、大統領を1981年1月20日から1989年1月20日まで8年間、務めている。

「ロン・ヤス関係」は、良好な日米関係を象徴していた。

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「ロン・ヤス関係」は、良好な日米関係を象徴していた(※写真はイメージです)

たとえば、レーガンは夫人の元女優、ナンシー(1921年7月6日〜2016年3月6日、享年94歳)をともなって1983年11月9日から12日にかけて国賓として日本を訪れている。この来日で奥多摩に近い中曽根の別荘「日の出山荘」(東京都西多摩郡日の出町)でロン・ヤス会談(11月11日)が開かれ、その席で中曽根はお茶を点ててレーガンとナンシーの2人をもてなした。