娘を思って詠んだ歌

紫式部の親としての感情が込められた歌が残っている。皇后定子が急死し、1年を経て長保3年12月には、一条天皇の母で道長の姉であった東三条院詮子も亡くなった。その間に疫病も猖獗しょうけつをきわめた。

そんなあるとき、女房が唐竹を花瓶に生けて祈ったのを見た紫式部は、自分を「世を常なしなど思ふ人(世の中を無常だと感じている人)」だと評価。そして、娘の賢子が病気になってしまった不安を綴ったうえで、こう詠んだ。

「若竹の おひゆく末を 祈るかな この世をうしと いとふものから(若竹のように幼い娘が、無事に成長してくれるように祈ることです。この世は住みづらいところだと思っているけれど、娘はちゃんと成長してほしい)」

その後、紫式部は一条天皇の中宮である彰子のもとに出仕した。『紫式部日記』の寛弘5年(1008)12月29日の条に、「初めて参りしも今宵のことぞかし(はじめて出仕したのも同じ日でした)と書いているから、おそらく寛弘3年(1006)か同2年(1005)に、彰子の女房になったと考えられる。

母親譲りの歌の才能

その後、賢子の消息はあまり確認できないが、長和6年(1017)ごろ、十代半ばの賢子は母と同様に、彰子のもとに出仕した。それまでのあいだ、祖父の為時は寛弘6年(1009)に左少弁に任じられ、寛弘8年(1011)年にはふたたび越後守として赴任しており、このため賢子は「越後の弁」と呼ばれることになった。

百人一首58番より大弐三位(藤原賢子)(画像=「陽明文庫旧蔵 百人一首」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

賢子も歌人として評価された。母と並んで女房三十六歌仙の一人で、歌集『大弐三位集』を残しており、そこには祖父の為時とのやりとりも載せられている。賢子は「年いたく老ひたる祖父のものしたる、とぶらいに(ひどく年をとった祖父が訪ねてきたので、慰めの言葉として)」、こう詠んだという。

「残りなき このはを見つつ 慰めよ 常ならぬこそ 世の常のこと(木に残り少ない木の葉を見ながら、心を慰めてください。葉が散るように無常なのが、この世の常なのですから)」

これに為時は、こう返している。

「ながらへば 世の常なさを またや見ん 残る涙も あらじと思へば(長生きをすると、世が無常である様子をまた見ることになるのでしょうか。私にはもう流す涙もないと思うのに)」