「中下級貴族の娘→天皇の乳母」に大出世
貴公子たちと次々と浮名を流したことでも知られる。道長の次男(母の源明子)、藤原頼宗。藤原公任の子、定頼。道長の正妻である倫子の兄の子、源朝任。そして『栄花物語』によれば、道長の次兄、道兼の次男であった兼隆と結婚し、その娘を産んだという(「左衛門督と呼ばれるその相手が別の人物だという説もある」。
また、万寿2年(1025)、誕生した親仁親王(道長の六女、嬉子の子)の乳母に任ぜられた。これで一段格が上がった感がある。その後、東宮権大進の高階成章と再婚し、一男一女をもうけたのち、寛徳2年(1045)に親仁親王が即位すると(後冷泉天皇)、典侍(後宮の事実上の長官)になり、さらに従三位にまで上り詰めている。
母はおろか、祖父の為時の従五位下よりはるかに上で、中下級貴族としては異例の大出世であった。むろん、天皇の乳母だからだが、「道長の娘だから」と考えれば納得がいってしまう。だからこそ、その設定が危険なのだが……。
その後、承暦2年(1078)に開催された歌合に参加しており、没年はわからないが、80歳近くまで存命であったことは確認されている。長寿をふくめ、かなりのものを手に入れた人生であったことはまちがいない。