史実である可能性は「かぎりなくゼロ」
しかし、紫式部が産んだ子の父親が道長だった可能性はあるのだろうか。もちろん、男女の逢瀬について当時の記録がないからといって、「なかった」と断じることはできない。ましてや、子供の父親がだれであったかなど、DNA検査でもしないかぎり正確なところはわからない。
その意味では、父親が道長であった可能性を「ゼロ」と言い切ることは不可能である。だが、そもそも、身分差が大きい2人がこうして偶然に遭って子供を宿す可能性は、「ゼロ」とは言い切れないまでも、かぎりなく「ゼロ」に近かったといえる。そもそもこの時代、貴族の女性は、異性にみだりに顔を見せたりせず、出歩くことも少なかった。
「光る君へ」では、韓流ドラマなどでよく見るように、ほぼあり得ない偶然をいくつも重ねて、紫式部の子は道長との不義の子ということにしてしまった。それによる負の影響が心配である。
脚本家は意識していないかもしれないが、今後、「光る君へ」の視聴者は、ことあるごとに「まひろの子は道長の子」だと意識することになってしまうだろう。そうすると、どうなるか。
いみじくも宣孝は、「左大臣様はますますわしを大事にしてくださる」と発言したが、この言葉は、視聴者がこれから誘導される方向を象徴している。宣孝の待遇はもとより、まひろの扱いも、まひろが『源氏物語』を書いた動機も、『源氏物語』の内容が現況のようになった理由も、視聴者はすべて「まひろの娘の父親が道長だから」という1点から理解することになりかねない。
まひろの娘について、「父親は道長」である可能性も残すという程度ならいい。だが、ドラマとはいえ、そこを断定してしまうと、視聴者が歴史、および『源氏物語』の成立について考察する際、かなり濃い色眼鏡をとおすことになってしまう。
夫・宣孝の急死
むろん、まひろが産んだ娘についても視聴者は、道長自身が自分の娘であると意識していた、という視点を持つ。その結果、歴史的事実に対して広く想像をめぐらせることが困難になるのが怖いが、ともかく、ここでは先入観なしに、彼女の今後がどうなるのか、確認しておきたい。
賢子が誕生する前後、宣孝は重要な任務を帯びて九州に下向し、おそらく礼として、道長に馬2頭を献上。その後も道長に近侍することが多かった。ドラマでの「ますますわしを大事にしてくださる」という発言が真実味を帯びて聞こえてしまう厚遇ぶりだった。
ところが、長保3年(1001)4月25日に宣孝は急死する。九州からはじまった疫病に感染した可能性があり、重度の内臓疾患に見舞われたようだ。紫式部はこのころ30歳前後だったと思われる。
翌長保3年(1002)の春から初夏には、「光る君へ」で岸谷五朗が演じている父の為時が、4年にわたる越前守(福井県北東部の長官)の任期を終えて帰京しており、以後は以前から住み慣れた家で、為時、紫式部、賢子という3世代(弟の惟規もいたであろう)が暮らすことになったと考えられる。