「向島の決闘」で起きたこと
近代日本の礎を築いた実業家の二人だが資本主義に対する価値観は大きく異なった。岩崎は権限とリスクを集中すべきという「独裁主義」だったのに対し、多くの人の資本と知恵を結集する「合本主義」(株式会社制度)を唱えた。
二人はいくつかの事業でつばぜり合いを演じていたが、あるとき、岩崎から渋沢に招待状が届く。渋沢が向島の料亭・柏屋に向かうと、そこには岩崎と芸者が15人いたが、岩崎は芸者を交えてどんちゃん騒ぎをしたいわけではなかった。渋沢と手を組みたかったのだ。
ただ、会社を経営して利益を独占したい岩崎と、合本主義の渋沢では考えがあうわけはない。渋沢は岩崎のような財閥の手法、すなわち政治家との癒着構造による利益誘導も真っ向から否定していた。渋沢はあまりの考えの違いに辟易し、便所に行くふりをして帰宅してしまう。
この「決闘」をもって、渋沢が岩崎を毛嫌いしていたともいわれるが、二人はその後に日本初の損害保険会社である東京海上保険を設立する。思想は違っても商売人としては認め合っていた。
生涯をささげて目指したこと
渋沢は69歳でほとんどの役職から退き、76歳で完全に引退するが、現役時代から関わっていた社会福祉事業に注力し、生涯忙しく働いた。80歳近くなっても深夜の1時、2時まで働くこともあり、81歳で渡米までしている。
渋沢は社会事業を通じて富の再配分をすることで社会が潤い、経済が循環する「道徳経済合一説」を唱えた。ビジネスパーソンとして数多くの会社を立ち上げて運営しながら、社会事業や教育などへの積極支援を惜しまなかった。彼が生涯をささげて目指したのは極論すれば社会をよくすることだった。
慈善事業を実業人の当然の仕事と捉え、有言実行で、東京慈恵会、日本赤十字社などを設立した。関東大震災後には寄付金集めに奔走した。
実業教育に関しても日本全国の商業学校を支援し、現在の一橋大学の原型を整えたのも渋沢だ。従来は不要といわれていた、商人や女子のための教育機関づくりにも尽力し、日本女子大学、東京女学館などの教育機関創立を手がけた。
また、労働団体の活動を支援し、労働者の環境や地位の向上にも努めた。経営者は社員の人格を尊重し、その福利厚生のために努力しなければならない、と主張する彼の言説は、当時としては異端だったが、21世紀の今も課題になっている「ブラック企業」に経営者としていち早く問題意識を持っていたことになる。