定子は夫や子どもへの思いを辞世の歌3首に遺していた

一方、定子の方も夫への思い、我が子への思いを遺して旅立って逝ったのでした。『後拾遺和歌集』の哀傷巻は、定子の歌から始まっています。

一条院の御時、皇后宮かくれたまひてのち、帳のかたびらの紐に結び付けられたる文を見付けたりければ、内にもご覧ぜさせよとおぼし顔に、歌三つ書き付けられたりける中に
夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくもいそぎ立つかな(『後拾遺和歌集』)

(現代語訳)一条院の時代に皇后宮が崩御された後、几帳の垂れ布の紐に結び付けられていた手紙を見つけたところ、天皇にもお見せくださいというように、歌が3首書き付けられていた、その中に

「夜通し約束したことをお忘れでなければ、私を恋しく思われるでしょう。そのあなたの涙の色は悲しみのあまり流す血の色なのでしょうか。

誰も知る人のいない死出の旅路に、今はもうこれまでと心細い気持ちで急ぎ出立することです」という歌があった。

藤原彰子の出産の様子。白い屏風や装束で統一されている[土佐光祐筆『栄花物語図屏風(部分)』(出典=国立文化財機構所蔵品統合検索システム)を加工

土葬を望んだのは、夫と子のいる現世に未練があったからか

三度目の出産で自らの命が危ういことを悟っていたのでしょう。出産間近に産婦の部屋のしつらいがすべて白色に替えられた時、定子は一人で遺詠の和歌を詠み、寝室の几帳の紐に結び付けたと考えられます。その歌は、出産と崩御の騒動が一段落した時に見つかりました。

最初の歌は定子から一条天皇に宛てたものです。道長の監視下でなんとか逢瀬が叶った時、一条天皇と定子は時間を惜しんで夜通し共に過ごしていたのでしょう。その時交わした言葉を支えにしてきた定子が、断ち難い一条天皇への恋情を歌ったものです。

次の歌は死を覚悟した定子の辞世歌です。辛い現世から逃れて旅立つあの世より、夫や幼い子供たちが残る現世に惹かれる思いが伝わります。そして、『後拾遺和歌集』が採録していない定子の3首目の歌は、先の2首と共に『栄花物語』に記されています。それは、自分の葬儀の方法を示唆するものでした。

煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ(『栄花物語』)

(現代語訳)「煙にも雲にもならない私の身であっても、草葉に置く露を私だと思って偲んでください」

亡くなった後に煙や雲になるのは、当時一般的だった火葬による葬儀を意味していますが、定子は火葬ではなく土葬を希望しました。土葬だから、土の上に生える草葉の露を私だと見てくれと言うのです。定子は火葬にされ煙となって天上に消えてしまうより、この世の土に残って子供たちを見守りたいと願ったのではないでしょうか。その言葉に従って、定子は土葬に付されました。