演説会の聴衆が聴いていたもの

当初は神奈川の知事選に出るつもりでいて、都知事選は別の人を応援しようと考えていたのだが、見込み違いがわかって自分で都知事選に出ることにした。

1994年にマッキンゼーを辞めるときに、絵か何か記念品を贈呈したいと会社から言われたので、「そんなもの要らないから、チームを2つくれ」と私は要望した。

正規のフィーを支払ってマッキンゼーのチームを1年使ったら何億円もかかる。引退して貧乏になるからそんな金は使えない。だからマッキンゼーのチームを2つ借りて、半年かけて東京と神奈川の政策集を作った。それがマッキンゼーの引退記念品になった。

「文藝春秋」に発表した政策は大きな反響があったが、それは各政党や都議会議員などのいわゆる政治のプロからで、結果的に言えばマスコミや一般の有権者にはほとんど省みられなかった。

マッキンゼーのチームを動員して作り上げた政策自体に問題はなかったが、マスコミや有権者にそれをアピールするということについては完全に準備不足だったと思う。

選挙戦中に政策をびっしり書いたパンフレットを道行く人に配っていても、「何か違うんじゃないか」という違和感がつきまとった。

演説会ではバスの横腹に取り付けた大型モニターにパソコンをつなげて政策を分かりやすく説明した。集客効果は抜群で、他の候補もびっくりするぐらい人が集まったが、後から思えば目を引いたのは巨大モニターであって政策ではなかった。

コンサルタントの悪い癖で、プレゼンテーションをすると精神的に落ち着く。あれだけ大掛かりな装置を作って、ハイライトの部分を私が説明する。長年やってきたから、当然、説明も上手い。つい、「集まった人たちは自分の話を聞い理解してくれている」と思い込んでしまうが、そうではなかった。政策のプレゼンなんてどうでもいい。むしろ「早く終わらないかな」という感じで、聴衆はその後で大前研一が何を言うかを聞きにきていたのだ。

新橋などでは40分の演説会が終わってから家内のジニーを紹介し、彼女が余興で「春のうららの〜」と篠笛を吹いた。

演説会の後に「大前さんに決めた」と握手を求めてくる人はほとんど政策のことを口にしなかった。「いい奥さんだ」とか「外国人なのに上手に日本の曲を吹いて、奥さんには感動した」というのがもっぱらの反応だった。

都知事選では都内1万8000キロを走破したが、私のプレゼンテーションに聴衆が足を止めて耳を傾けて、時に拍手が沸き起こったのは丸の内ぐらいものだった。浅草でも渋谷でも新宿でも、寒い街中で演説をじっと聞いていた有権者には、アメリカ人の妻が「隅田川〜♪」を吹いて、最後に「主人をよろしくお願いします」と頭を垂れるほうが琴線に触れたのだ。

政策よりも情緒。そのことに当時は気付かなかった。東京は広い。しょせん私は丸の内の坂本竜馬でしかなかった。

私と正反対で、具体的な政策は何もないのだが、情緒に訴えるのが天才的に上手かったのが青島幸雄氏だ。「都知事になったらちゃぶ台をバーンと引っくり返す」という青島節に有権者は一票を投じた。

「東京から隠し事をなくします」

この一言で都民の怒りに火をつけて、後は家で寝ているだけの選挙戦で青島氏は170万票を獲得した。

私が獲得したのは42万票。生涯はじめて味わった屈辱的大敗北だった。

(次回は《元祖「平成維新」-5-》。2月11日更新予定)

(小川 剛=インタビュー・構成)