何が私の役回りか
1995年4月の東京都知事選挙で私は惨敗を喫した。
マッキンゼーで習得した問題解決の技法。20年にわたる執筆活動。そして「平成維新の会」という3年間の市民運動——。私が都知事選で必死に訴えた「政策」とは、それらを通じて温め、研ぎ澄ましてきた、いわば集大成のようなものだった。政策をわかってもらえれば誰にも負けない自信があっただけに、敗戦のショックは大きかった。
政策で政治家が選ばれないのなら、『新・国富論』や『平成維新』を書いて以降、私がやってきたことは一体何だったのか。泥沼のような選挙戦に何の意味があったのか。強烈なアイデンティティ・クライシスに襲われた。
青島幸雄氏は160万票を獲得して都知事になった。当時の東京都の有権者数は900万人を少し欠けるぐらい。800万人として投票率が6割(実際の投票率は50. 67%)だとすると、480万人。つまり投票した人の3分の1は青島氏を支持したことになる。
3分の1という数字は重い。私も演説をした新宿アルタ前広場を歩いている人たちの3分の1が「大前研一」の名前を書くことは、「俺が俺である限り、未来永劫ない」と思った。だから、あっさりと政治の世界から足を洗った。
「このままいけば日本は没落する」「2005年までに何とかしなければいけない」と一人で力んでも、東京で青島氏が、大阪で横山ノック氏が首長に選ばれる時代だったのだ。
失われた20年を経て景気、雇用に対する危機感は比べものにならないほど高まっているが、それでも日本の有権者に考え方を伝える自信は今もってまったくない。大体、私のもの言いでは怖がられるだけだ。
やはり政治家には向いていない。裏方として政策を作るのが私の役回りなのだ。書くべき政策を書き、残すべき政策を残す。生きているうちに実行してくれる政治家が現れればメッケモノ、死んだ後にやってくれてもいいように最新版の日本再生のシナリオを常に作り、記録に残しておく、というのが今の私のスタンスである。