「陰ながら応援」の正体

都知事選後の夏に参議院選挙があった。私はもうやる気を失っていたのだが、当時、会の事務局長をやっていた長妻昭氏や三浦雄一郎氏から「どうしてもやりたい」と言われて、比例区で私を含めて10人の候補者を立てた。しかし気合が入っていなかったから、何をやったのか、あまり記憶にない。結局、参院選も惨敗に終わり、「平成維新の会」はこの年をもって解散することになった。いまは「平成維新を実現する会」という形で有志が引き継いでくれている。

後から振り返れば、政策集団としては十分に機能したが、選挙を戦う組織としての体制づくりは不十分だった。

橋下さんも先の総選挙では同じような経験をしていると思うが、要は選挙が盛り上がってくると、分けの分からない無数の人たちが応援にやってくるのである。いつのまにか選挙事務所は知らない人間だらけになり、ボランティアで炊き出しをやったり、タスキを作ったりしている。

世の中にはお祭り騒ぎを渡り歩いている選挙のプロ、悪く言えば“選挙ゴロ”のような人種がいる。そういう連中まで流れ込んできて、勝手に現場を仕切り始める。コントロール不能なくらい人の出入りが爆発的に増えているから、選対本部としても何が起きているのか全然わからない。

そのうち「今度はこっちで立会演説会」「次はここで記者会見」という具合にスケジュールまで管理されて、新聞記者相手にブリーフィングまで始めてしまう。私の意図とは関係なく勝手に話をするから、結果的に私が嘘をついたようなことにもなる。

当人は立会演説会をこなすのが精一杯で、夕方に事務所に戻れば記者会見という毎日だから、とても目が行き届かない。いったん選挙に突入してしまうと、予測不能の力学が働いて、自分の選挙戦なのに舵取りができなくなるのだ。

「平成維新」の理念には賛同しながら、いざ選挙となると手のひらを反して距離を置く人が大勢出てくるのも想定外だった。

都知事選の際、かつて応援した「平成維新の会」の推薦議員たちに、今度は自分を応援してくれないかと頭を下げた。しかし「差し障りがあるので、陰ながら応援します」という返事がほとんどで、表立って応援してくれた議員は数えるほどしかいなかった。

財界も同じである。お客さんのところを回って「今度マッキンゼーを辞めて、こういうことをやります」と挨拶したが、7、8割は「ぜひ成功してください。“陰ながら”応援しています」という反応だった。

あとの何割かは「自民党に入りなさいよ。そうすれば堂々と応援できる」とか「大前さんの考え方を自民党に持ち込んで、自民党を直してくれ」という言い方が多かった。

都知事選のときには社員を駆り出して応援してくれるありがたい会社もあったが、ほとんどが「陰ながら」である。

マッキンゼーを辞めて、日本を変えようと全身全霊を打ち注いでいるのに、「陰ながら応援」とはどういうことか。無性に悔しかったし、腹立たしかった。

陰ながら応援してくれた人とは、以来、17年間、付き合いがない。

その後18年になるが、幸か不幸か各政党から首長選に出てくれ、とか比例代表のトップにするから出てくれ、などの要請が後を絶たない。自分が出たいと思った時には思い切り足を引っ張ってくれた政党が、今度は応援するという。しかし私は政治家として活躍する「旬」を逃したと思っているので、すべて断っている。

また、年齢を重ねてきたからかもしれないが、経済や原子力関係でアドバイザーとか参与に、という要請もたくさんもらっている。だがすべて断っている。わたしはロータリークラブにも同友会にも、あらゆる団体に属したことがない。群れるのが嫌いなこともあるが、自分の意見を言いたい時に言いたい形で言う、というのが自分の使命と思っているので、そのまま群れずに天国に行きたい。

政治家とか役人の作り出した“名誉”ある地位や冠は私には合わない。交付金をもらっていない東京都の知事になって本当に日本を変えることを考えていたが、それは名誉とか権力とか冠ではなく、裸の革命を遂行する第一歩ととらえていたからだ(「文藝春秋」1995年3月号「新・薩長連盟」参照)。

いま再び「維新」の足音が聞こえている。旧態依然とした「太陽の党」などとの間違った合併や、遅々として進まぬみんなの党との合従連衡などいろいろあるが、これこそが私の経験した政治のプロセスだ。まっすぐには進めない。それでも道州制への移行を含めた統治機構の変更が20年前よりも進んでいると信じたい。

(次回は《元祖「平成維新」-6-》。2月18日更新予定)

(小川 剛=インタビュー・構成)