「自分でやるしかない」

都知事選のころ(写真は大前伶子氏提供)。

何億も私財を注ぎ込んで、しかも選挙となると全国をくまなく回って政治家を応援しても、受益者、生活者の側に立った立法一つできない。つまり日本は変わらないことがよくわかった。事ここに至っては自分でやるしかない。

私は「2005年までに平成維新を実現しよう」と訴えてきた。2005年には日本の国民の平均年齢が50歳になる。どんな組織でも平均年齢が50歳を超えたら“変化”を嫌うようになり、改革などという言葉は出てこなくなる。そういう会社や市町村を私はいくらでも見てきたし、国家も同じ。平均年齢が50歳を超えたら、国を変えよう、社会制度を再構築しようなどというインセンティブは急速に失われる。

2005年を超えたらこの国を変えることはできない。日本は永遠に変わることができない、という焦りがあった。82人の国会議員を送り込みながら、一本の法案も通らなかった。私には通さなければならない法案が83本もあるのだ。もはや一刻の猶予もない。

だが、明確に認識していたのは国会議員にならないということだ。日本という国では国会議員は力がない。衆院定数480議席(当時は500)のうち241議席を占めないと首相にはなれないのだ。しかもその過半数も数人の造反者が出るだけで振り子は反転してしまう。国会議員というのはまさに「480分の1」なのだ。大胆な改革で躊躇する議員が出てきたら私が提唱しているような「(統治機構の変更も含めた)平成維新」はなし得ない。

対して地方の首長は住民の直接選挙による公選制で、ほとんど大統領に近い権限を有していて、議会から罷免されることもない。2期8年でも十分やりたいことができる。

それが1995年の東京都知事選に出馬した理由である。

ただし、私一人では間に合わない。当時埼玉県知事だった土屋義彦さん、岐阜県知事の梶原拓さん、大分県知事の平松守彦さん、と親友の三浦雄一郎さんが北海道から立候補する、ということで同志と諮って、知事連合を作り、皆で中央政界及び中央集権の官僚機構にドスを突き付けて改革に取り組ませる、広域行政と自治によって地域から日本を変えていくということで、『新・薩長連合』を立ち上げた。

「文藝春秋」に『新・薩長連合結成宣言』『新・東京ビジョン』という政策提言2部策を発表し、同年2月5日に知事選への出馬を表明した。