衆参ダブル選挙という「戦略提案」
日本の政治との最初の接点はマッキンゼー時代の1980年代半ば。中曽根康弘首相に自民党の戦い方を提案したことだった。
1983年の総選挙では、ロッキード事件で逮捕された田中角栄元首相が一審で有罪判決を受けたことから政治倫理が大きな争点となり、自民党は単独過半数を割る敗北を喫した。自身三期目、しかも自民党単独政権を目指す中曽根首相としては、次期総選挙での必勝を期していた。しかし事前の票読みでは形勢不利で惨敗の可能性すらあった。
そこで中曽根さんと会食した際に、衆参ダブル選挙のアイデアを授けたのである。
当時、選挙の投票率は下がり続けていたが、投票に来ない有権者の分析をすると、圧倒的に自民党支持が多かった。ただ、「日本は変わらない」と思っているから投票所に足を運ばない。投票日が晴れれば外に遊びに行ってしまうし、雨が降ったら面倒臭がって家から外に出たがらない。
そういう有権者を選挙に駆り出せば駆り出すほど“隠れキリシタン”が出かけてくるので自民党は圧勝できる。投票率を上げるための秘策がダブル選挙だった。本当は統一地方選も合わせた「トリプル選挙」を中曽根首相に勧めたのだが、「さすがにそれは難しい」ということでダブル選挙にとどまった。
それでも「これは儲けた」と非常に喜んだ中曽根首相は巧妙にダブル選挙への布石を打ち、1986年6月のいわゆる「死んだふり解散」を経て、同年7月6日に衆参同日選挙が実施されることになった。
このときの自民党の選挙戦略や区割りや候補者調整にも知恵を貸した。
当時は小選挙区制ではなく、中選挙区制だから“死に票”が多かった。たとえば1つの選挙区に自民党から2人が立候補して、自民党の候補1人と社会党の候補が当選したとすると、3位で惜敗したもう1人の自民党の候補者の得票はまったくの無駄になる。
そこで選挙区を調整して、2人以上の当選が確実な選挙区以外は候補を一本化し、泣こうが喚こうが1人しか公認しないことを徹底した。
また1つの選挙区で1人の候補者が票を取り過ぎるのももう1人の自民党の候補者に回らないから無駄になる。たとえ仲が悪い候補者同士でも、同じ選挙区で死に票が出ないようにしっかり選挙協力させた。
選挙区ごとに綿密なマーケティング分析をして、自民党が稼いだ得票が最大の議席数につながるように区割り調整をした。結果、86年の総選挙の投票率は70%を軽くオーバーして、306議席を獲得した自民党の圧勝に終わった。