『キングダム』の嬴政の脱出劇は父親の史実をベースに?
緊急事態だったために趙姫夫人と政は一緒に逃げることが叶わず、呂不韋の配慮で趙の豪族の家に匿われていた。ふたりが秦に戻ったのは、子楚が王位に就いたあとである。秦王となった子楚が政を太子に指名したため、趙は政と母親を秦へ送り返さざるをえなかったのだ。
『キングダム』では政が命からがら趙から秦へと逃れるエピソードが描かれているが、あれは政の父である子楚の脱出劇をベースにしたものだろう。
子楚が荘襄王となったことで、呂不韋は丞相の座に就いた。それまで一介の商人に過ぎなかった男が、いきなり政治的基盤を持たない国で高位に就いたのである。ところが、荘襄王の時代はたった3年で幕を閉じてしまう。王位3年目のその年、荘襄王は崩御したのである。
祖父(安国君)が在位3日、父(子楚、荘襄王)が在位3年で死亡したため、まだ13歳だった政が王位に就くことになった。いかに優れた資質を持っていても、13歳の少年に国を統治することはできず、呂不韋が丞相よりさらに上位の相国として秦の実権を握る。国の頂点に立つ君主以外はすべて一律、というのが秦国の制度だが、このときばかりは呂不韋が王に肩を並べるぐらいの権力を得ていたのかもしれない。ただし呂不韋が行なった統治は、孝公時代から続いてきた商鞅の変法に基づくものだ。この時点で政は「仲父(父に次ぐ者)」として呂不韋を敬っていたが、やがて決別のときがやってくる。
嬴政は呂不韋を敬っていたが、呂不韋は母親と密通していた
秦の王となった政が自ら王として政治を行ない、中華統一に向けて六国と戦うのは22歳で元服してからだが、その前に国内の敵を粛清しなければならなかった。太后(政の母)の愛人・嫪毐の反乱が史書に記されている。政の母・趙姫はもともと呂不韋の愛人で、太后となってからも呂不韋と密通を続けていたが、ことが露見するのを恐れた呂不韋は、嫪毐という巨根の男を自分の代わりに太后にあてがう。嫪毐に溺れた太后はふたりの子を産み、嫪毐は領地を治めるまでに出世した。
しかし、やがて政の耳にも母の醜聞が聞こえてくる。身の危険を感じ取った嫪毐は太后の印璽で兵を集めて反乱を起こしたが、なんなく鎮圧され、嫪毐とその一族は皆殺しにされた。この反乱に太后がどの程度関わっていたのかは不明だが、嫪毐との間にできた子供ふたりは異父兄の政によって誅殺され、太后は幽閉の身となった。