カルト的宗教に共通する特徴

この孤立につけ込むカルト的宗教には、いくつかの共通の特徴がある。

まず、入信した者が今まで付き合っていた人とのつながりを、遮断しようとする。

教団関係者とだけ付き合うように仕向け、他の関係者を遠ざけるか、断たせようとする。

仏教の「出家」も似たところがあるので、初期には批判されたが、その後、両親の許可がない出家は認めないことに方向転換している。

また、修行中には、特に初期、外界との関係を遮断するが、これも期間限定である。基礎訓練には、そのような「余念を交えない」時間が必要なことも確かなのだ。

撮影=新潮社

二番目に、およそ物事を「善/悪」と「敵/味方」に峻別しゅんべつし、教団が「善」と「味方」を独占しているように、信者に思わせる。

自分たちだけが絶対に正しいことを知っていて、同じ信者以外はすべて悪しき敵だというのだ。

しかし、人が言葉を用いて話をして、それを聞いた他人が内容を理解できることならば、そこに「絶対に正しい」ことなどあり得ない。それが「諸行無常」ということである。

三番目は、自由に脱会させない。実は、これがカルトとまともな宗教を分ける、最も大事なポイントである。

信仰は、当人の意志が尊重されて初めて成り立つ。意志を奪われた信仰は単なる思想の強制=洗脳である。その尊重の原点が、信仰を捨てる自由を無条件で認めることである。

付き合ってもよい宗教者とは

四番目は、異様な金集めをする。入信したからには全財産を吐き出せと迫り、さらに強引な集金を課するのだ。そして、この献金や金集めは「本人の意志」だと言い張る。すでに「本人の意志」は奪われ、教団による洗脳しか残っていないにもかかわらず。

お坊さんがお布施の額を聞かれて、今でも「お志で」とか「お気持ちで」と言うことが多いのは、お布施は「本人の意志」あってのものだと思っているからである。

こう述べてくると、付き合ってもよい宗教者がどういう人か、少しわかってくるだろう。

一、質問を嫌がらない。自分だけ正しいと考える者は、質問を許さず、服従だけを求める。

二、自分はすべてわかっている、絶対的な真理を知っている、などと言わない。ちなみに、本当に「わかっている」人間は、「ここまではわかるが、ここから先はわからない」と明確に言う。

三、自分と自分の属する教団の自慢話をしない。大事なのは教えであり、人や団体ではないのだ。

四、金の話をすぐに持ち出さない。教えと人物がまともなら、いつの時代にも、布施をしたくなる人は出てくるものである。