女房たちを処刑した翌年、信長は本能寺で光秀に討たれる

織田信長にしても、安土城の女房たちを処刑した翌年、明智光秀によるクーデターである本能寺の変で亡くなります。

明智光秀画像(画像=本徳寺所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

明智光秀がクーデターを起こした動機は永遠の謎とされていますが、部下に厳しい信長の姿勢が光秀の反乱につながった可能性はあります。

実際、織田家の筆頭家老・佐久間信盛(1528~82年)は、長年、信長に仕えてきたにもかかわらず、本能寺の変の約2年前に突如追放され、高野山(和歌山)などで放浪した後、死去しています。

前出の『信長公記』によると、信長は19カ条もの痛烈な批判を込めた「折檻せっかん状」を信盛に突きつけています。これは事実上の解雇通知ともいえますが、10年近く前に佐久間が戦で負けたこと、信長に素直に従わなかったことを追放の理由としてあげています。

長年仕えた重臣でも、過去の失敗を許すことなく追放する信長の姿勢は、功績をあげている明智光秀のような武将でさえ、「いつかは自分も佐久間と同じように追放されてしまうのではないか」と考えて、クーデターに向かわせたとも考えられるでしょう。

頑強な人が悪いということではありません。むしろ、たいへん素晴らしいことです。ただ、そういう人ほど部下の気持ちを考え、人材の扱いには注意が必要だということです。

好感がもてない人の悪いところばかり見てしまう傾向

徳川家康は「人のよし悪しを見るときに、どうかすると自分の好みに引っ張られて、自分が好きなほうをよしとするものだ」といいました。

私自身も、かつては自分の好みに引っ張られて、好感をもてない人に対しては、悪いところばかりが目について仕方ありませんでした。

私は現在、経営コンサルタントをしていますが、以前はいくつかの企業に勤め、起業したこともありました。

自分でいうのもなんですが、私は外見からはおおらかで穏やかそうに見られることが多いのですが、じつはちょっと短気なところがあり、家族や付き合いの長い人からは、よく指摘されることがあります。

そんな性格もあってか、以前は、好感をもてない人の悪い面がいったん気になってしまうと、イライラしてそのことで頭がいっぱいになることさえありました。イライラが抑えられず、相手によっては、辛く当たることもあったのです。