政権が志半ばで終わった可能性
一条天皇は道長の申し出を、病気は「邪気(物の怪)が行ったものだ」として、受け入れなかった。とはいえ、どうしても出家したいなら、病気が平癒してから考えてはどうか、という趣旨を伝えている。場合によっては、道長を権力の座から外すことも厭わないという心づもりが、一条天皇にはあったのかもしれない。
一方、道長の辞表が『本朝文粋』に収められており、次のように記されている。
「臣、声もとより浅薄にして、才知は荒蕪たり。偏に母后の同胞たるを以て、次ならず昇進す。また父祖の余慶に因りて、匪徳にして登用される(私は、声望はもともと薄く、才知や家柄もたいしたことはありません。単に、お上の母后である詮子様の弟であるというだけで、序列を越えて昇進してしまいました。また、父祖が善行を重ねてくれたおかげで、私自身には徳がないのに登用されました)」
倉本一宏氏はこう記している。「(道長は)自己の権力基盤については、意外に正しく認識していたのである。このまま道長が、彰子の入内や頼通の元服より以前に、薨去したり出家したりしていれば、まさに一代限りの中継ぎ政権に終わったはずである」(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。
実際、一条天皇に道長を外す気がなかったとはいえず、道長の出家の意志も、それなりに本気であったと考えられる以上、道長の政権はここで終わっていても不思議ではなかったわけだ。この時点では、長女の彰子は数え11歳でまだ入内しておらず、長男の頼通はまだ7歳にすぎなかったのである。
道長を悩ませる一条天皇と定子との関係
このとき一条天皇は、道長の病気を「邪気が行った」と判断したが、それは道長の思いでもあった。先に引用した道長の辞表には、「序列を越えて昇進してしまった」ことが強調されていたが、それは裏返せば、2人の兄が急死したおかげで権力を手に入れたことを意味する。このため、道隆と道兼の「邪気(物の怪)」が、以後も長く道長を悩ませることになった。
長徳4年(998)3月の腰病は、4月には回復し、道長は出家することを許されないままふたたび参内するようになったが、同じ年の夏には疫病が大流行した。それは「裳瘡」、現代の麻疹で、8月には道長も感染し、また一条天皇に引退を申し出ては、断られている。
ところで、このころ道長の最大の悩みは、一条天皇と定子との関係だった。道長が権力を固めるためには、長女の彰子を入内させて皇子を産ませる必要があるが、一条天皇は出家したはずの定子を相変わらず寵愛している。だが、寵愛が続いて定子が皇子を産めば、彼女の兄弟の伊周らが復活して、自身の権力は奪われるかもしれない。
だが、道長の悩みをよそに、一条天皇はまず長徳3年(997)6月、定子の身柄を職の御曹司(后に関する事務をあつかう場所)に移した。つまり宮中に戻した。それが批判されたため、定子はいったんそこに留め置かれたが、ついに長保元年(999)正月、天皇は彼女を内裏に戻した。そして「妊活」の結果、その年の11月7日、定子は一条天皇の第一皇子、敦康親王を産んだ。