紫式部と和泉式部の違いは作品に表れている

王朝文学は色恋沙汰を抜きにしては語れない。それはその担い手たる女房たちがその場に身を置くことでの経験が大きい。「恋は曲者」(謡曲『花月』)の語があるように、自身がその虜になることもあった。そんな自己をも許容するか否かが、紫式部と和泉式部の違いかもしれない。

紫式部は、色恋に酩酊できないタイプだったと思われる。それへの彼女なりの自覚が散文へと走らせた。けれども彼女はそれなりに愛欲の世界も心得ていたが故に“仮想現実”を伝えることもできた。光源氏が義母の藤壺への禁断の恋のように、である。

他方、和泉式部の場合は、為尊・敦道両親王(父冷泉天皇)たちとの恋愛事情が語るように、恋の世界に没入できた。自身を恋の情念と同居させることに、こだわらない立場だ。“世間”の目を気にかけて、常に立つ瀬の確保を求める紫式部とは、好対照なのかもしれない。

女房たちは権門関係者にも接近できた。真偽は定かではないが、紫式部自身も『尊卑分脈』には「御堂関白道長ノ妾」と見えるくらいだから、出仕女房の世界はそれなりに深い。いずれにしても王朝の語感と、女房の存在は一体だった。彼女たちの知的エネルギーは都と鄙を結ぶ役目、そして宮中にあっては世間なるものの伝導役を果たすことになる。

宮廷での生活が文芸創作の肥やしに

『百人一首』53番の「右大将道綱母」から62番の「清少納言」までは、55番の藤原公任を除いてズラリと女流歌人たちが顔をそろえる。“才女の季節”ともいうべき状況だ。ここでは、この才女たちを輩出した時代性についてもふれておきたい。図表1は主要な女流作家の関係を示したものだ。

まず才女の季節ともよべるほどに、宮廷女房を輩出させた彼女たちの血筋だ。女官として出仕した彼女たちは、局・房(部屋)を与えられる。平安期に入ると後宮の拡大で、彼女たちの活躍の場も広がった。

彼女たちが直接、間接に見聞した世界が文芸創作の肥やしになったことは、疑いないはずだ。