茶々に執着したのは百姓の出というコンプレックスからか

フロイス『日本史』には、秀吉の言葉として「皆が見るとおり、予(秀吉)は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」というものを載せています。また、『徳川実紀』(江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、大坂に入った徳川家康に対し、秀吉が次のように語ったとの記述があります。

「今、官位人臣を極め、兵威、四海を席巻するといえども、元々は松下某の草履取りで、奴僕であったことは皆、知っている。ようやく織田殿(信長)に取り立てられて、武士の交わりを得たる身であるので、天下の諸侯は、表では私に畏服しているようでも、心から帰順しているわけではない。今、家臣となっている者たちも、元は同僚であるので、私を実の主君とは思わず」

自嘲気味の発言ではありますが、秀吉は本音を語ったと見ることもできましょう。この発言から、推測するに、秀吉には生まれや経歴に対して、コンプレックスがあったと思われます。また「皆が見るとおり、予(秀吉)は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」との言葉からは、劣等感と共存しつつも、出世街道を駆け上ったことによる強烈な自負心を窺うこともできるでしょう。

出自と経歴に劣等感を持っていた秀吉。それを埋め合わせ、しかも諸大名を畏服させる1つの手段が、あの信長の姪・茶々を側室に迎えることだったのではないでしょうか。

茶々の他にも主君信長の娘・三の丸殿を妻にしていた

秀吉は、信長の娘(三の丸殿)や、名門・京極氏の娘(竜子)なども側室にしていますが、それも同様の理由があったと思われます。側室選びには、政略的な意味合いも多分にあったのです。

三の丸殿の肖像画(模写)、秀吉の没後、二条昭実と再婚した[画像=「二条昭実夫人像」 韶陽院殿(織田信長女)、南化玄興賛(模写)、東京大学資料編纂所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

ちなみに、信長の娘・三の丸殿(母は、信長の子・信忠の乳母、崇源院)については、生年など詳しいことは分かりません。信長の死後、蒲生氏郷に引き取られて、その後、秀吉の側室になったようです(氏郷の養女となったか)。秀吉の側室にいつなったのかという確かなことは分かりませんが、父・信長が亡くなった頃には、まだ幼かったと考えられるので、茶々の方が早く秀吉の側室になったと思われます。

秀吉が晩年に催した、いわゆる醍醐の花見(1598年)の際、三の丸殿は、側室の中で、三番目の序列だったとのことです。以上のことから、秀吉が茶々を側室にしたのは、後継者をもうけるため、女好き、政略的意味合いと複合的な理由があったと推測できるでしょう。

※主要参考文献一覧
・桑田忠親『桑田忠親著作集 第5巻 豊臣秀吉』(秋田書店、1979)
・服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012)
・藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社、2007)
・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013)
・濱田浩一郎『家康クライシス 天下人の危機回避術』(ワニブックス、2022)

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