お茶々、お初、お江の3人は生き延び、秀吉の庇護下に
しかし、別の史料には、お初が勝家に庇護されていた「後」に高次に嫁したとしており、前記史料は単に「後」を落としているに過ぎない。天正10年に高次と娶せる必要もなく、状況的にも考えにくい。ちなみに、お初は嫉妬深く、懐妊した侍女(側室)を殺害しようとしたこともあったという。
三女のお江は、小谷城が落城した年に生まれており、小谷城で生まれたとも、身重のお市が岐阜で出産したともいう。佐治信吉(一成)に嫁し(異説あり)、次いで羽柴(豊臣)小吉秀勝に再嫁、さらに秀勝没後は徳川秀忠の正室となり、三代将軍家光らを儲けた(異説あり)。
別行動していた勝家の14歳の嫡男は処刑されてしまった
賤ヶ岳の戦いに従軍していた勝家嫡男の権六と佐久間盛政は敗戦後、勝家とは別行動となり、山中を逃走していたが、府中の山林で生け捕りになった。『浅野家伝記』によると、権六と盛政は浅野長吉(長政)の手の者が生け捕ったという。『豊臣記』では勝家父子は同陣していたようだが、敗戦の混乱のなか、権六は勝家とは別行動をとったのだろう。権六は勝家の嫡男であり、信長の息女を室としていた。宣教師の記録には「武士並びに民衆がことごとくこの柴田殿の嫡子を深く尊敬している」と評されている。また、信長は女婿の権六に越後国を与える朱印状を発給したともいう。
秀吉は、捕縛した2人を見せしめとして「隣国方々の城」を引き回した上で、権六は佐和山で誅殺、盛政は敵対の「張本人」として、車に乗せて洛中を引き回し、六条河原で誅殺し、権六の首と合わせて獄門に懸けた。『兼見卿記』天正11年(1583)5月6日条によると、権六は佐和山辺で誅殺され、盛政とともに5月6日には上洛する予定と記し、権六は14歳としている。
伝聞として、盛政は誅殺されたあと、首が京都に運ばれてきたと記している。宇治川のあたりで斬首されたとも、槙島で成敗されたともいう。権六が帯していた青江の刀は、丹羽長秀から秀吉に進上されたが、長秀の嫡男長重に元服の祝いとして贈られたという。権六の処刑で勝家の嫡流の血統は絶えた。