※本稿は、大野哲也『大学1冊目の教科書 社会学が面白いほどわかる本』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
1988年から2年間、パプアニューギニアで暮らしていた
今からさかのぼること三十数年、1988年から90年にかけての2年1カ月間、大洋州に浮かぶ島国パプアニューギニアで暮らしていた。当時この国は「地球最後の秘境」と呼ばれ、日本社会で生きてきた者にとってはまさに異文化、毎日が驚きの連続だった。
この国は第二次世界大戦時に激戦が繰り広げられた場所で、多くの日本兵が命を散らした悲惨な記憶の場でもあった。15万の兵士が送られ、12万8000人が命を落としたといわれている。大半は銃弾ではなく、食糧不足による飢えと、蚊を媒介にして罹るマラリアによって倒れたのだった。
日本にとっては凄惨な歴史を有する国だが、住んでいた頃は、そのような面影はところどころに転がるように放置されている朽ち果てた戦闘機や軍事車両にみることができる程度であり、そこに暮らす人たちも戦争のことを話題にすることはまったくなかった。
異国の地で「ニホンジンですか」と話しかけられる
ただ、一度だけ面白い経験をした。仕事でラバウル島に行った時のこと、町を散策していると一人の老人がふらりと近づいてきた。自分たちとは肌の色や髪の毛の質がまったく違うアジアの人間をみつけて、興味と好奇心がむくむくと湧き上がってきたのかもしれない。
おじいさんは出し抜けにこういった。「ニホンジンですか」。見知らぬ「外国人」がたどたどしくも正確な日本語を突然話したのでびっくりしたが、ともあれ、戸惑いつつ「そうです」と日本語で答えた。そうすると「おーっ」と歓声をあげて、満面の笑みをたたえながら「もしもしカメよ、カメさんよ」といきなり歌い出した。そして完全な歌詞と発音とメロディーで一番を歌い終えるとまたもや唐突に「タナカさんは元気ですか」といった。
頭のなかが「?」マークでいっぱいになった私に彼が語ったところによると、その真相はこうだった。
「彼らは、当時、子どもだった私とよく遊んでくれた」
「タナカという人に日本語を教えてもらった」
「その時に“もしもしカメよ”の歌も教えてくれた」
「タナカはとてもよい人だった」
「彼は元気か?」